見出し画像

近世、京都の庶民は即位礼を拝観していた──見直しが必要な俗説的天皇史(2008年4月22日)


▼閉ざされた存在だったのか

 真理を追究するはずの学問が逆に虚構を振りまいている、ということがしばしば見受けられます。天皇研究はその典型かもしれません。

 江戸時代の天皇が民衆から遠い存在だった。日本の天皇は明治時代になってから民衆の目に触れるようになった──というのがこれまでの通説でした。この説では、近代の天皇制度は「伝統」的ではない、ということになり、この説は女性・女系天皇容認論の論拠ともなっています。

 たとえば、多くの文献を駆使して、「万世一系説」「女帝『中継ぎ』説」を批判検証し、皇室典範改正・女帝容認を提案する朝日新聞・中野正志記者の『女性天皇論』が一時期、話題になりましたが、この本には、吉田裕・一橋大学教授の『昭和天皇の終戦史』に依拠しつつ、
「江戸時代までの天皇は、宮中の奥で閉ざされ、神秘的な存在だった。維新まもなくの1872(明治5)年、明治天皇は、東京の皇居から人前に姿を現し、50日間の旅に出ている。大行幸は、1885(明治18)年まで6回行われた。天皇は『見えない』存在から『見える』存在へと大転換を遂げた」という記述があります。


 しかし、本当に近世以前の天皇は民衆から「閉ざされた存在」だったのでしょうか。たとえば、皇室の祖神をまつる伊勢神宮にお参りするおかげ参りが全国化したのは江戸時代です。雛祭りが全国化したのも江戸時代で、男雛、女雛は天皇、皇后をあらわしています。民衆の皇室に対する敬愛の念が連綿と続いていたのではないでしょうか。


▼「観覧券」が配られた

 いや、実際、天皇がおられる京都では、天皇の即位行事に、何と「観覧券」が配られ、庶民が争って詰めかけた、というのですから驚きです。

 平成18年11月の読売新聞の記事によると、近世民衆史研究家の森田登代子氏は、江戸時代に京都で出された「町触れ」(告知)2万数千件を集めた『京都町触集成』(京都町触研究会編)を丹念に調べた結果、桜町天皇の即位式では、観覧券に当たる「切手札」が発行され、男女別で御所のどの門から入るかが決められていた、桃園天皇の即位式でも切手札が発行され、事故防止のためか人数が制限され、老人や足の弱い人などは観覧が禁じられていた、ことが分かったというのです。

 また光格天皇即位式を描いた『御譲位図式』などの絵図では、警備の武士とは別に、裃(かみしも)で正装して御所に入る人、子どもや授乳する母親といった絵柄が確認された、といいます。

 森田氏は、「(即位行事は)民衆にとってごく身近で楽しみな行事だった。江戸時代になって急に公開したのでなく、中世以来の伝統ではないか」と語っている、と記事は伝えています。


▼君民一体でお祝い

 通説をくつがえす歴史的「発見」ですが、なぜこうしたことがこれまで分からなかったのでしょう。

 読売の記事は、国際日本文化研究センターの共同研究報告書『公家と武家3』に掲載された森田登代子氏の研究論文を紹介したのでしたが、森田氏は同年春、同センターの紀要「日本研究」に「近世民衆、天皇即位式拝見」を発表しています。

 その論文によると、近世の日本人は天皇など知らなかったどころではありません。天皇の祭りである大嘗祭、新嘗祭、そして即位儀礼が庶民に告知され、実際、明正天皇の御即位行幸の屏風図は即位式に大勢の庶民が観覧していたことが確認できます。桃園天皇の即位式を拝観した庶民は男100人、女200人でした。後水尾天皇の即位式を描いた屏風図には僧形の者や授乳中の女性までが描かれています。

明正天皇御即位行幸屏風図


屏風図に描かれた授乳する女性


 近世の即位式は、庶民を排除し、庶民から隔離されたところで行われていたのではありません。国家最高の儀式は庶民が参加し、君民一体で祝われていたのでした。

 社会に流布している俗説的な天皇論を、眉にツバして読み直してみる必要があります。


 参考文献 中野正志『女性天皇論──象徴瀬天皇制とニッポンの未来』(朝日新聞社、2004年)、吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992年)、「天皇即位式、江戸時代は庶民の任期行事」(「読売新聞」関西版、2006年11月18日)、森田登代子「近世民衆、天皇即位式拝見──遊楽としての即位儀礼見物」(「日本研究」国際日本文化研究センター、2006年)、同「近世民衆、天皇即位の礼拝見」(『公家と武家3』思文閣出版、2006年)など

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?