見出し画像

「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り 第1回 明治天皇はご不満だった!? by 佐藤雉鳴(2010年3月26日)

(画像は教育勅語。明治23年10月31日の官報から)


愛子内親王殿下の「不登校」騒動でも、また以前、当メルマガなど取り上げた西尾幹二電通大名誉教授の東宮批判、あるいは橋本明元共同通信記者の廃太子論でもそうですが、最近の皇室報道・批評で際立っているのは、いわゆる君徳論です。

 たとえば共同通信は、先週の19日、野村東宮大夫が定例会見で、「国民の皆さまにご心配をかけ、わたしたちも心を痛めております」という皇太子同妃両殿下のコメントを発表したことを伝えていますが、「同学年の児童らへの配慮を示す直接の言葉はなかった」と批判的です。
http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010031901000587.html

 事実だけを伝える客観報道に見えて、その実、「自分のことしか考えていないのではないか」と両殿下に一方的に詰め寄っているかのような記事です。

 一般論でいえば、子供の世界は案外、残酷で、予想もしないようなことが起こりえます。いじめや学級崩壊など、今日、珍しいことではありません。外部の大人たちが不用意に立ち入れば、いじめ問題をめぐる双方の子供たちのキズが拡大することもあるでしょう。

 両殿下のコメントには「学校ですでにいろいろな対応策を考えていただいている」とありますから、「直接の言葉」はなくても、両殿下に内親王殿下以外の子供たちへの配慮がないとはいえないでしょう。「直接の言葉」はかえって波紋を呼びかねません。

 そんな道理は優秀な記者やデスクには自明のはずなのに、東宮攻撃とも映る記事が書かれるのは、皇族には一般国民よりも高い徳が求められるのが当然だという考えがあるからでしょうか。

 天皇を儒教的な聖人君子やヨーロッパの国王のような地上の支配者に見立てる考え方はいまに始まったことではありませんが、そもそも正しいのでしょうか?

 というわけで、今日から佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」を連載します。

 教育勅語の冒頭には「徳」が登場します。東京帝国大学教授の井上哲次郎(哲学)が書いた解説本『勅語衍義(えんぎ)』はもっぱら儒教的な説明を加えていますが、これは誤りで、明治天皇ご自身がご不満を表明され、草案起草者の井上毅(こわし)も否定的だったのでした。

 けれども教育勅語解釈の誤りはいまも正されず、尾を引いています。昨今の皇室批判もその延長上にあるように見えます。

 それでは本文です。

◇1 思いのほか少ない教育勅語の解釈書


 教育勅語は、明治23(1890)年10月30日、教育に関する勅語として渙発(かんぱつ)され、GHQの占領下にあった昭和23(1948)年6月19日、衆参両議院においてその排除・失効確認決議がなされたものである。

 教育勅語の成立については、いくつかの詳細な研究がある。しかしそのなかで、本文の解釈に言及したものは思いのほか少ない。そしてその少ない著作の基本的な解釈はおしなべて同じである。

 明治24年9月に出版された『勅語衍義(えんぎ)』は教育勅語の解説書である。井上哲次郎著、中村正直閲で、勅語渙発時の文部大臣芳川顕正が叙を寄せている。これがのちに官定解釈といわれたものであり、今日までの解釈はすべてこの『勅語衍義』を基にしているといっても間違いではない。『勅語衍義』は平成15(2003)年に出版された『井上哲次郎集第一巻』にも収められている。

 教育勅語の関係文書はいろいろ存在するが、なかでも草案作成の中心人物であった井上毅(こわし)の残した文書はもっとも重要なものである。「梧陰(ごいん)存稿」「梧陰文庫」が『井上毅伝』に収められている。

 また『明治天皇紀』には、『勅語衍義』に関する見落とせない内容が記されている。そのことの詳細は後述する。

 教育勅語の草稿段階から完成までの推敲(すいこう)の流れは、海後宗臣(かいご・ときおみ)『教育勅語成立史』や稲田正次『教育勅語成立過程の研究』などに仔細がある。

 元田永孚(もとだ・ながさね)は教育勅語渙発にもっとも貢献した人物ともいえるが、勅語渙発の翌明治24年1月に他界している。元田の『勅語衍義』に関する重要な文書は見つけられない。

◇2 私書扱いで発行された『勅語衍義』


 この『勅語衍義』にはいくつかの謎が存在する。

 『明治天皇紀』を読むと、『勅語衍義』の起草前後の経緯について、2つのことが分かる。

(ア)『勅語衍義』は時の文部大臣芳川顕正によって「之れを検定して教科書と為し、倫理修身の正課に充てんとす」る目的で起草されたものであることが記されている。しかし、天覧に供したあと、結局は井上哲次郎の私著として発行されている。

(イ)「告げしめて曰(いわ)く、斯(こ)の書、修正の如くせば可ならん、然(しか)れども尚(なお)簡にして意を盡(つく)さざるものあらば、又、毅と熟議して更に修正せよ」と天皇は仰せられている。毅とは井上毅のことである。

 『井上毅伝』にも不思議な記述がある。

(ウ)「小橋某に答える書」には、教育勅語について、「注釈など無い方がマシでしょう」(原文は漢文)という文面がある。

(エ)また、後に文部大臣となった井上毅は、「修身教科書意見」において、天覧に供した『勅語衍義』を「高尚に過ぎる」という理由で、大胆にも小学校修身書「検定不許」としている。

 以上の記述を、これらの著作から時系列で整理すると、次のようなことになる。

◇3 教科書になれなかった


(1)明治23年9月、教育勅語渙発時の文部大臣芳川顕正は碩学の士に勅諭衍義を書かせ、これを検定して教科書とするつもりであった。

(2)芳川顕正は教育勅語渙発後、帝国大学文科大学教授井上哲次郎に衍義書を嘱付した。

(3)芳川顕正は明治24年4月、できあがった勅語衍義案を上奏した。

(4)天皇は修正案のようにすればよく、意を尽くしていないのなら井上毅と熟議して更に修正せよと仰せられた。

(5)明治24年5月、芳川顕正は同書を井上哲次郎の私著として出版することを上奏した。

(6)明治24年9月、『勅語衍義』の初版が発行された。

(7)明治26年7月、文部大臣井上毅は『勅語衍義』を小学校修身書検定不許とした。

 『勅語衍義』にいくつかの謎があることは、これで明白である。つまり……。

(ア)天覧に供したものを、内容が高尚過ぎるとはいえ、「検定不許」は相当に厳しい扱いである。少なくともここに、井上毅のそれに対する評価が歴然と存在する。ほかにも解説書はあるのだから、敢えて「検定不許」の必要はない。採用する方は程度にあったものを選択すればよいことである。

(イ)天皇の「毅と熟議せよ」は、井上毅の修正案が充分反映されていないことへのご不満と考えて妥当だろう。ご不満の部分とはどこか。

(ウ)当初芳川文部大臣は検定を受け教科書とするつもりであったが、結局『勅語衍義』は井上哲次郎の私著として出版された。この変更は天覧のあと、井上毅と熟議をせず、「修正の如くせば可ならん」のにそれを実行しなかったためであることは容易に想像できる。

 天皇は勅語衍義案にご不満があり、井上毅は出版された『勅語衍義』に否定的だった。これが歴史の示す事実である。けれども、この事実について、「重要ではない事実」としてその理由をあげ、検討したものは見つけられない。それどころか明治天皇のご不満も井上毅の否定的意見も黙過され、探究されることはなかった。

◇4 修正が集中する第1段落の解説


 『勅語衍義』について井上哲次郎はのちに、当時の有識者や草案作成者井上毅にも参考意見をもらったと述べている。しかし結局は、事実として、井上毅による小学校修身書「検定不許」となっている。ここに何があったのだろうか?

 「勅語衍義(井上毅修正本)」というのがある。平成19年3月、『国学院大学日本文化研究所紀要』において、斎藤智朗によるその資料の翻刻が発表された。この原文には井上毅のその後の態度にそぐわないものが少なくない。

 案の定、この原文は他筆になるものであって、それに井上毅が手を入れたと解説にある。翻刻の作業者ゆえの貴重な解説である。また井上毅の『勅語衍義』稿本への修正意見の多くが稿本の前半部分に集中している事実が確認されている。

 明治天皇が「簡にして意を盡さざるものあらば」と仰せられた部分と、井上毅が他筆による原文に手を加えている部分はほぼ同じであって、この稿本前半部分であると推察できる。教育勅語のいわゆる第一段落に関する解説の部分である。

 徳目を述べられた教育勅語の第二段落に関しては、井上毅の修正意見はわずかであって、その基本的な解釈にはほとんど影響を与えるようなものではない。したがってこの推察はほぼ妥当な見方だろう。

 教育勅語の第一段落は、次のように述べている。

「朕(ちん)惟(おも)ふに、我が皇祖皇宗(こうそこうそう)、国を肇(はじ)むること宏遠に、徳を樹(た)つること深厚なり。我が臣民、克(よ)く忠に、克く孝に、億兆心を一(ひとつ)にして、世世(よよ)厥(そ)の美を済(な)せるは、此(こ)れ我が国体の精華にして、教育の淵源、亦(また)実(じつ)に此(ここ)に存(そん)す」

◇5 井上哲次郎にない「皇祖皇宗の徳沢」


 これが第一段落といわれる部分である。この一行目に関する『勅語衍義』の解説は次のとおりである。

「太古の時に当り、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、天祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)の詔(みことのり)を奉じ、降臨せられてより、列聖相承(う)け、神武天皇に至り、遂に奸(かん)を討じ逆を誅(ちゅう)し、以(もっ)て四海を統一し、始めて政を行い民を治め、以て我が大日本帝国を立て給ふ。因(よ)りて我邦は神武天皇の即位を以て国の紀元と定む。神武天皇の即位より今日に至るまで、皇統連綿、実に二千五百五十余年の久しきを経て、皇威益々(ますます)振(にぎは)ふ。是れ海外に絶えて比類なきことにて、我邦の超然万国の間に秀(ひい)づる所以(ゆえん)なり。然(しか)れども是れ元と皇祖皇宗の徳を樹つること極めて深厚なるにあらざるよりは、安(いずく)んぞ能く此の如く其れ盛なるを得んや。」

 これに対し、井上毅の「修正本」はやや異なる文面である。

「神武天皇皇国を肇め民を治め、我が大日本帝国を定めたまへるの後、歴世相承け、以て今日に至るまで、皇統連綿、実に二千五百五十余年の久しきを経て、皇威益々振ひ、皇徳益々顕(あら)はる、是れ海外に絶えて比類なきことにして、我邦の超然万国に秀づる所なり、蓋(けだし)皇祖皇宗の徳沢(とくたく)深厚なるにあらざるよりは、安ぞ能く此の如く其れ盛なるを得んや。」

 井上毅が皇祖を神武天皇とし、皇宗を歴代天皇としたことは「梧陰存稿」(小橋某に答える書)に明記されている。これは井上毅が総理大臣山縣有朋に示した起草七原則ともいうべきものに沿った考えである。その中には敬天尊神などの語を避ける、あるいは宗旨、つまり特定の宗派が喜んだり怒ったりしないもの、ということがあげられている。

 また井上毅の「小橋某に答える書」に、古典によれば天照大神は「天知らす神」であって「国しらす神」ではないとある。勅語をめぐっての、神代に関する論争を防止したかったのではないかと思われる。ただこれは教育勅語の基本的な解釈には決定的な問題ではない。

 重要なことは、井上毅に「皇祖皇宗の徳沢」があって、井上哲次郎にはないことである。「皇祖皇宗の徳を樹つること極めて深厚なる」は教育勅語の単なる引用であり、解説にはなっていない。

◇6 井上毅の修正意見を反映せず


 井上毅はこの第一段落の修正意見として次のような文章を残している。これは部分的には平成2年に出版された『日本近代思想大系6 教育の体系』において引用されているが、出典が記されていなかったものである。それが、平成20年3月、国学院大学日本文化研究所の編集で出版された『井上毅伝史料篇補遺第2』のなかに「梧陰文庫!)─四五九」として公開されたのである。

「我が臣民の一段は勅語即ち皇祖皇宗の対─股(むきあい)─文にして、臣民の祖先の忠孝の風ありしことを宣べるなり、故に維新の攘夷諸士を此の例に引くは古今の別を混するの嫌あり、削るべし、何故なれば云々(うんぬん)以下九行暁(さと)るべきなり迄(まで)削るべし、何となれば行文冗長の失あるのみならず、其の君道を論ずる処、全く勅語の本文に関係なし、是れ衍義の体に非ず」

 ところがである。井上哲次郎は維新の諸士については井上毅の意見を汲(く)んでいるが、「何故なれば……」以下の文章を出版された『勅語衍義』に読むと、ここには井上毅を反映させていないことが確認できる。

「何故なれば、国君の臣民を愛撫(あいぶ)するは、慈善の心に出で、臣民の君夫に忠孝なるは、恩義を忘れざるに出づ。臣民にして恩義を忘れんか、禽獣に若(し)かず。国君にして慈善の心なからんか、未だ其(その)天職を尽したりと謂(い)うべからず。此れに由りて之れを観れば、我邦の屹然(きつぜん)として東洋諸国の間に卓越するは、主として君臣父子の関係、其宜しきを得るに因ることを知るべく、又教育の基本とすべきこと、亦此れに外(ほか)ならざるを暁るべきなり。」

 つまり井上毅は、「徳を樹つること深厚なり」の皇祖皇宗の「徳」と臣民の「忠孝」が対になっていること、これは我が国の歴史を貫いて変わっていないことを主張しているのである。そして「国君にして慈善の心なからんか、未だ其天職を尽したりと謂うべからず」は教育勅語の解説になっていない、と批判しているのである。たしかに勅語は天皇のお言葉であるから、その解説として国君として云々は余分なものだろう。

 しかしこの点について、井上哲次郎は井上毅の修正意見をまったく受け入れなかったのである。

◇7 井上哲次郎は「君主の徳」を説明せず


 以上の事実から、二つの『勅語衍義』には、「徳を樹つること深厚なり」の 「徳」について決定的な違いがあるのではないか、とする仮説が成立する。明治天皇が「毅と熟議せよ」と仰せになったご不満とはこの点にあるのではないか。教科書ではなく私書扱いとなり、小学校修身書検定不許となった理由もここにあるのではないか。

 帝国憲法の解説書である『憲法義解』は井上毅の筆になるとされている。その憲法第一条の説明には「しらす」という天皇の統治を語って、「君主の徳は国民を統治するに在て一人一家に亨奉するの私事に非ざること」とある。

 一方、井上哲次郎は天皇の統治をあらわす「しらす」に言及しておらず、「国君の臣民を愛撫するは、慈善の心」と述べている。彼における天皇の統治は支那の有徳君主思想を前提としている、と言われてもやむを得ないだろう。

 井上毅の「皇祖皇宗の徳沢」には「しらす」という「君主の徳」が込められていて、「徳を樹つること深厚なり」につながっている。しかし井上哲次郎は「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を説明できていない。

 上記の違いは、教育勅語の解釈において、看過できない重要な事実である。ならば、井上毅の考えた「君主の徳」とは、いかなるものか、次回、追究する。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤雉鳴さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?