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天皇陛下をご多忙にしているのは誰か──祭祀が減り、公務が増える。それは陛下のご意志なのか(「文藝春秋」平成23年4月号)


 平成23年2月上旬、心配なニュースが飛び込んで来ました。ご高齢で、しかもガン療養中の今上陛下が、今度は心臓に異常があることが1月の定期検診で判明したというのです。2月11日の建国記念の日に精密検査のため入院され、その結果、手術は不要で、当面は投薬で経過観察するとのことでした。

 大事に到らなかったのは幸いですが、気がかりなのは、ご恒例となっていた三殿御拝がお取り止めとなったことです。ここ数年、ご健康に心配事が起こるたびに、宮中祭祀がしわ寄せを受ける調整が繰り返されています。

 今上陛下が皇后陛下とともに、「皇太子時代から大切され、忠実に受け継がれ、つねに国民の幸せを祈っておられる」(宮内庁HP)だけでなく、何よりも歴代天皇が第一のお務めとしてきたのが祭祀なのに、です。


▽1 御不例後も増え続けるご公務

 およそ2年前の平成20(2008)年暮れに今上陛下がにわかにご体調を崩されたのを受けて、宮内庁は翌年1月末、天皇皇后両陛下のご高齢とご健康に配慮し、ご公務の「調整・見直し」を前倒しする具体的なご負担軽減策を発表しました。

 けれども、ご公務は減るどころか、逆に増えています。今上陛下のご容態がとくに好転したとは聞きませんし、それどころか昨(22)年2月にはノロウイルスに感染され、6月にもお風邪を召されたにもかかわらず、です。

 表1をご覧ください。宮内庁がインターネット上に公表している「天皇皇后両陛下のご日程」にもとづき、平成17年から昨年まで、今上陛下のご公務の日数を月ごとに単純計算したものです。

陛下の御公務日数


 一目瞭然、少なくとも日数において、ご負担の軽減はまったく実現されていないことが分かります。それどころか22年は過去6年間で最高の、年間271日にまで達しました。3月は26日、月平均では22日以上です。

 宮内庁によれば、公表されるご日程には宮内庁書類のご決裁などは含まれていませんから、20年暮れの御不例後も、文字通り土日もない、ご多忙の日々が相変わらず続いています。

 外交官出身で、皇室の儀式を担当する式部官長を務め、平成8年から10年半、侍従長として今上陛下に仕えた渡邉允(まこと)氏(現在は侍従職御用掛)によれば、「われわれの生活には、月曜から金曜まで働いて土日を休む、という生活のリズムが一応ありますが、両陛下の日常にはそれがありません」(雑誌「諸君!」20年7月号掲載のインタビュー)。

 週末にご公務があり、祝日に祭祀が行われることもしばしばで、昨年(22年)だけでも、10日間以上ご公務が続いたのは、9回を数えます。20年11月に御不調を訴えられたあとでさえ、10日間連続のご公務があり、その後、ようやく「すべてのご公務のおとりやめ」が発表されたのです。

 御歳77歳。推古天皇以後では、後亀山天皇(1347~1424)と並ぶ、歴代5位のご長寿となられた陛下です。70歳を超えてご長命なのは12人おられますが、ほとんどは若くして退位されており、喜寿を超えてなお皇位にあるのは昭和天皇と今上天皇のお二方以外にはありません。けれども、ご公務はいっこうに減らないのです。
(注記。陛下は23年12月に78歳になられました。江戸期の霊元天皇と並ぶ歴代第4位の御長寿です)


▽2 ご負担軽減の標的にされた「第一のお務め」

 ご公務が増え続けるのとは対照的に、ご負担軽減の標的にされ、減少しているのが、皇室伝統の祭祀です。表2をご覧ください。

陛下の祭祀お出まし日数


 宮内庁がHP上に宮中祭祀の日程を掲載するようになった17年には、年間37日の祭祀のお出ましがありましたが、一昨年(21年)は26日、昨年(22年)は27日に激減しています。ご負担軽減策で、「新嘗祭については、当面、天皇陛下は、『夕(よい)の儀』には、従来どおり出御になることとし、『暁の儀』は、時間を限ってお出ましいただくこと、毎月1日に行われる旬祭については、5月1日及び10月1日以外の旬祭は、御代拝により行うことなど、所要の調整・見直しを行うこと」(21年1月29日の宮内庁発表)とされたからです。

 現在、宮中の奥深い神域・宮中三殿で行われる祭祀は、元日の四方拝、歳旦祭、1月3日の元始祭など、天皇みずから祭典を行う大祭、掌典長が祭典を奉仕し、天皇が拝礼する小祭だけで年間約20件を数え、このほか毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)、毎月1日、11日、21日の旬祭、歴代天皇の式年祭などがあります。とくに11月23日の夜に長時間にわたって行われる新嘗祭から、翌年1月まで、寒さが募る時期に、集中的に続きます。

 新嘗祭は、戦前、昭和天皇の祭祀に携わった元宮内省掌典の八束清貫が説明するように、「皇室第一の重い祭祀」(八束「皇室祭祀百年史」)とされます。天皇の祭祀は秘儀ですから、詳細を述べるのは憚れるのですが、概要を説明すると、当日の夕刻、宮中三殿の西方に位置する神嘉殿にお出ましになって、数々の神饌を作法に従い、時間をかけてお供えになり、拝礼のあと、神社の祝詞に相当する御告文を奏上され、さらに米と粟の新穀の御饌、白酒・黒酒の神酒を神前で召し上がり、この直会がすむと神饌を順次撤下され、一通りの神事が終わります。これが「夕の儀」で、三時間後、ふたたびお出ましになり、同様の神事が繰り返されます。これが「暁の儀」です。

 身を清め、へりくだり、神に接近し、神人共食の儀礼によって命を共有し、一体化し、神意を受け継ぎ、衰えた命を新たに再生させる、という食儀礼です。神々の食事は1日2回、したがって神事は2回、繰り返されます。

 記紀神話は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がこの世界に降り立たれたとき、皇祖天照大神が「高天原にある斎庭(ゆにわ)の穂をわが子に与えなさい」と命じられたと記述します。わが国の稲作の始まりを説明するこの天孫降臨神話が、新嘗祭の根拠だといわれます(八束『祭日祝日謹話』など)。

 天皇の祈りはひたすら国と民のために捧げられる、公正かつ無私なる祈りです。

 天皇が即位後、最初に行う新嘗の祭りが大嘗祭で、新帝が供饌し、祈りを捧げる大嘗宮の儀は秘儀とされ、祝詞にあたる申詞は天皇直伝で一般には知られません。けれども、後鳥羽上皇が、14歳で即位される第三皇子・順徳天皇に、その秘儀について教えられたことが上皇の日記(「後鳥羽院宸記」建暦2[1212]年10月25日)に記録され、その一端を知ることができます。

「伊勢の五十鈴の河上にます天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく。朕、皇神の広き護りによりて、国中平らかに安らけく、年穀豊かに稔り、上下を覆寿いて、諸民を救済わん。よりて今年新たに得るところの新飯を供え奉ること、かくのごとし」

 俗人ならば自分や家族のために祈りますが、天皇は違います。「祭祀王」「祈る王」と称される所以です。

 約10年後、順徳天皇は『禁秘抄』(1221年)を著しました。宮中のしきたりに通じていた天皇は、父帝による鎌倉幕府倒幕の挙兵、承久の変の直前、皇子に帝王の道を伝えようとしてこの一書を著したのですが、その冒頭には「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあります。朝晩、敬神を怠らず、かりそめにも伊勢神宮や賢所に足を向けることがあってはならない。天皇にとってもっとも重要なのは神祭りであることを、皇室存亡のときに明言されたのです。

 このように、歴代天皇が第一の務めとして重視してきたのは祭祀です。

 天皇の祈りはじつは毎日行われます。『禁秘抄』には天皇が毎朝、身を清められたあと、京都御所清涼殿の石灰壇に立たれ、伊勢神宮ならびに賢所、各神社を遥拝されることが記されています。石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)と呼ばれます。

 平安中期、宇多天皇に始まり、一日も欠かされず受け継がれてきたこの祈りは、明治の東京遷都に伴い、毎朝御代拝に代わりました。側近の侍従を宮中三殿に遣わし、烏帽子・浄衣に身を正し、拝礼させるとともに、ご自身は御座所でお慎みになります。昭和天皇は「我が庭の宮居に祭る神々に世の平らぎをいのる朝々」(昭和50年歌会始)という歌を残されています。


▽3 祭祀こそストレスの原因とばかりに

 ところが、天皇の千年の祈りがいま、ほかならぬ側近たちによって、ご負担軽減の美名に隠れて、形骸化されようとしています。

 発端は20年2月、両陛下のご健康問題に関する宮内庁発表でした。金沢一郎・皇室医務主管は、天皇陛下がガン治療による副作用で、骨に異常を来す可能性があることから新たな療法の確保が必要だ、と述べ、風岡典之・宮内庁次長は、運動療法実施のためご日程のパターンを一部見直す、と補足しました。

 風岡次長の補足説明は、①昭和天皇のご負担軽減の先例に従うこと、②宮中三殿の耐震改修が完了し、3月末から宮中三殿での祭祀が再開されるのを機に、ご日程見直しの一環として調整を検討していること、③御在位20年を超える来年から、という陛下のお気持ちを尊重すること、の3点でした。

 翌3月には、祭祀の態様について所用の調整の検討が進められていることが、風岡、金沢両氏の連名で追加説明されました。宮内庁はこうして祭祀の簡略化に着手したのです。

 渡邉前侍従長の説明では、18年春から2年間、宮中三殿の耐震改修が実施され、祭祀が仮殿で行われるのに伴って、祭祀の簡略化が図られた。工事完了後も側近は、陛下のご負担を考え、簡略化を継続しようとしたが、陛下は「筋が違う」と認めなかった。ただ、「在位20年の来年になったら、何か考えてもよい」とおっしゃったので、見直しが行われたとされます(渡邉『天皇家の執事──侍従長の十年半』)。

 しかしその後、20年11月、陛下が不整脈などの不調を訴えられると、祭祀の簡略化は前倒しされました。

 12月上旬に新たな症状が現れ、宮内庁は検査と休養のためすべてのご公務を取りやめることなどを発表しました。羽毛田信吾宮内庁長官は当面の対応として、1か月程度はご日程を可能なかぎり軽くすることなどを表明しました。

 長官は祭祀の「さ」の字も語りませんでしたが、実際、調整の狙い撃ちにされたのは祭祀でした。ご公務の日程調整は「可能なかぎり」とはほど遠く、年末の誕生日記者会見が中止され、新年一般参賀のお出ましの回数が7回から5回に減らされた程度で、その一方、祭祀は無原則に蹂躙(じゅうりん)されました。

 例年なら元旦、宮中三殿の西に位置する神嘉殿南庭で伊勢神宮、山陵、四方の神々を遥拝する四方拝があり、引き続き、歳旦祭が宮中三殿で行われますが、四方拝はすでに前年から神嘉殿南庭ではなくお住まいの御所の庭で斎行され、お召し物も天皇だけが身にまとう黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)ではなくモーニング姿でお務めになり、歳旦祭はみずから拝礼なさる親拝ではなく、また側近の侍従による御代拝でもなく、掌典次長による御代拝となったとメディアは伝えています。

 分刻みの祝賀行事はストレスにならず、天皇第一のお務めである宮中祭祀こそがストレスの原因でもあるかのようです。そして1月末、祭祀を標的にする「調整・見直し」策が発表されました。


▽4 占領軍による宗教干渉

 祭祀の簡略化は側近の進言が繰り返され、進められたようです。渡邉前侍従長は「私も在任中、両陛下のお体にさわることがあってはならないと、ご負担の軽減を何度もお勧めしました」(前掲「諸君!」インタビュー)と語っています。

 前侍従長が説明するのは、祭祀、とりわけ新嘗祭の肉体的、精神的なご負担です。神事のあいだ「侍従長と東宮侍従長は外廊下で2時間、正座して待って」いることや、「紐で体を締め付ける装束」がつらいというのです。

 前侍従長は、立ち上がるときは必死の思いだと吐露し、「陛下もずっと正座なのです」と、肉体的苦痛がさも簡略化の直接的な理由であるかのように説いています。けれども神事をみずからなさる陛下が身動きもせずに、ただじっとしているわけではありません。

 能楽師などのように、幼少のころから板の間に正座して稽古に励む人たちもいますし、慣れている人たちは正座の方がむしろ楽だともいいますから、畳の上での長時間の正座が難行苦行であるかのように断定的に解説するのは正しくありません。

 陛下のご負担は、前侍従長自身が解説するように、国と民のために伝統の祭祀を引き継ぐことの精神的ご負担の方が大きいでしょう(前掲渡邉著書)。

 また、友人の神職などによると、装束は上手な人が着付けをすれば「締め付ける」という感覚は生じないといいます。そういえば、20年3月、皇后陛下が胃食道逆流症との診断を受けられたとき、宮内庁が、和服の着用がお身体に負担を与えるかのように説明したことについて、皇后陛下が長官らに「長年着ているので負担は感じない」「和服をあまり悪者にしないで」と話されたと伝えられたことがありました。

 前侍従長が祭祀簡略化の第2の理由と説明する昭和の先例は、拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』にくわしく書きましたように、昭和天皇のご高齢とご健康への配慮が理由ではありません。昭和40年代、入江相政侍従長の個人的祭祀嫌いと加齢に始まり、富田朝彦宮内庁長官時代の厳格な政教分離主義によって本格化したというのが真相だ、と私は考えます。

 歴史をひもとけば、戦後の宮中祭祀改変は、敗戦直後、占領軍による圧迫に始まりました。すなわち昭和20(1945)年12月に発せられた、いわゆる神道指令です。「国家と宗教を分離すること」を目的とする神道指令は、駅の門松や注連縄(しめなわ)までも撤去するほど過酷なもので、占領軍は民族宗教たる神道に対する差別的圧迫を加えました。宮中祭祀は存続を認められたものの、公的性を否定され、「皇室の私事」に貶められました。

 22年5月、現行憲法が施行され、それとともに、皇室祭祀令などはすべて廃止され、宮中祭祀は成文法上の根拠を失いました。憲法は「天皇は憲法が定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」(4条1項)と規定していますが、皇室の祭儀は国事行為には含まれません。しかし、「従前の例に準じて事務を処理すること」という宮内府長官官房文書課長・高尾亮一名の各部局長官に対する依命通牒によって、かろうじて祭祀の伝統は守られました。

 被占領国の宗教に干渉することは戦時国際法に明らかに違反していましたが、アメリカがあえてこれを無視して干渉したのは、戦争中から、「国家神道」こそ「軍国主義・超国家主義」の源泉だという理解に固まっていたからです。占領軍は、神道撲滅政策に血道を上げました。

 そのような状況下で、宮中祭祀の神道的儀式を守るためには、天皇の基本的人権による信仰という解釈を採るほかはなかったといわれます。終戦直後の宮内次官・大金益次郎(戦後初の侍従長)は、国会の答弁で、「天皇のお祭りは天皇個人としての私的信仰や否やという点には、じつは深い疑念があったけれども、何分にも神道指令はきわめて過酷なもので、論争の余地がなかった」と語ったと伝えられます。

 皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが方針だったのでした。

 GHQは、天皇が「皇室の私事」として祭祀を続けられることについては干渉しませんでしたが、それ以外の天皇の神道的儀式を認めませんでした。公と私を逆転させ、祭祀を内廷に押し込めたのです。祭祀に従事する掌典職は内廷費で雇われ、公務員ではなく、天皇の私的使用人として位置づけられるようになりました。


▽5 対神道政策を緩和したアメリカ

 しかし案外、知られていないことですが、アメリカはわずか数年で対神道政策を緩和します。24年11月の松平恒雄・参議院議長の参議院葬は神式で行われています。26年10月には、「国家神道」の中心施設と考えられた靖国神社に、吉田茂首相が参拝することも認められました。つい数年前は靖国神社の焼却があちこちで噂になり、GHQ民間情報教育局の大勢は「神道、神社は撲滅せよ」と強硬に主張していたのに、アメリカは神道敵視政策をいとも簡単に捨て去ったのです。

 たとえば、貞明皇后が亡くなった26年、ニッポン・タイムズ(現ジャパン・タイムス)紙上で、「信教の自由」「政教分離」をめぐる論争が延々と繰り広げられました。

 斂葬当日の6月22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられたのですが、その数日後、アメリカ人宣教師の投書が読者欄に載りました。「日本の学校で戦前の国家宗教への忌まわしい回帰が起きた。生徒たちは皇后陛下の御霊に黙祷を捧げることを命令された。キリストに背くことを拒否した子供たちはさらし者にされた」。これが宗教論争の始まりでした。

 政府は、斂葬当日に官庁等が弔意を表することを閣議決定し、文部省は「哀悼の意を表するため黙祷をするのが望ましい」旨、次官通牒を発しました。私立校は対象外で、しかも通牒には宗教儀式の不採用、社寺不参拝が明記されており、黙祷は「命令」でも「宗教儀式の強制」でもありませんでした。

 けれども、宣教師らは文部当局の説明に納得しませんでした。そしてサンフランシスコ平和条約調印日にふたたび学校で「黙祷」「宮城遥拝」が実施されると、「また命令された。新憲法は宗教儀式の強制を許すのか」と再抗議し、広範囲の読者を巻き込んだ甲論乙駁の紙上論争は10月半ばまで続きました。

 ところが、GHQは宣教師たちの反神道的立場をけっして擁護しませんでした。占領中の宗教政策を担当した同職員のW・P・ウッダードは、のちに回想しています。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和20年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない」(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」)

 平和条約の発効で日本は独立を回復し、神道指令も失効しました。しかし祭祀の法的位置づけは確定されずじまいでした。

 それでも34年4月の皇太子(今上天皇)御成婚で、賢所での神式儀礼が「国事」と閣議決定され、国会議員が参列しました。宮中祭祀はすべて「皇室の私事」とした神道指令下の解釈が打破されたのです。

 5年後の39年9月には常陸宮殿下の御結婚の儀は「公事」たる宮務とされ、10年後の44年には瓜生順良宮内庁次長が参議院で、他の公有の宗教施設と同様、宮中三殿の国有財産化が法的に可能である、という内閣法制局の見解を示し、祭祀の公的性がやっと認められました。

 天皇の祭祀を私事に閉じ込めてきた神道指令以来の法解釈はこうして改善されてきました。しかし逆に、このころを境に、揺り戻しが始まります。


▽6 入江侍従長の暴言「くだらない」

 祭祀簡略化の張本人は入江相政侍従長でした。理由は昭和天皇のご健康問題でもご高齢でもありません。

 43年に侍従次長となり、翌年には侍従長代行、侍従長と駆け上がった入江氏は、43年には毎月1日の旬祭の親拝を年2回に削減し、45年には新嘗祭の「簡素化」(入江日記)に取りかかりました。入江日記によると、同年の新嘗祭は夕の儀のみが親祭で、暁の儀は掌典長が祭典を行ったようです。

 入江日記には、45年5月に香淳皇后から旬祭の親拝削減について抗議を受けた入江が猛反撃し、ねじ伏せたことが誇らしげにつづられています。陛下のご意向を大切にするどころか、「くだらない」との暴言さえ記されていますが、親拝削減の理由が「ご高齢」にあるとの記述は見当たりません。

 当時、入江が盛んに気にしていたのは昭和天皇の「お口のお癖」で、新嘗祭「簡素化」のきっかけのように説明されています。しかし「お癖」が始まったのは香淳皇后の抗議の直後からで、陛下の「お癖」を入江が老化現象と理解したとしても、43年の旬祭の親拝削減の原因とはなり得ません。逆に入江の工作が「お癖」の原因とも疑われます。

 46年11月23日の入江日記には、次のように書かれています。

「……今年から新嘗はさわりだけに願ったので、出勤も遅くてよく、5時半に迎えの車が来るはずのところ、運動のために歩いて出勤、いい気持ちである。相撲を十両から打ち出しまで見る。こんなことも珍しい。6時過ぎにまた入浴。今日は都合3回の入浴。7時に吹上発御、吹上への還御は8時10分。お帰りのお車のなかで『これなら何ともないから、急にも行くまいが、暁もやってもいい』との仰せ。ご満足でよかった。みんなといっしょに酒肴。帰宅したのはかれこれ2時」

 伝統無視の簡略化に、昭和天皇が「ご満足」だったとは信じられません。「暁をやってもいい」とのご発言は逆にご不満の表明でしょう。争わずに受け入れるのが古来、天皇の帝王学ですが、皇室の伝統より相撲観戦を優先するような、俗物侍従長の身勝手きわまる簡略化に、陛下は最大限抵抗されていたのでしょう。

 それどころか、際限ない祭祀簡略化に対し、祭祀王を自覚する昭和天皇は「退位」を口にされました。入江日記にはこう記録されています。「11月3日の明治節祭を御代拝に、そして献穀は参集殿で、ということを申し上げたら、そんなことをすると結局、退位につながる、と仰せになるから……」(48年10月30日)

 この年の入江日記からは、昭和天皇が幾度となく退位、譲位について表明されたことが読み取れます。祭祀こそ天皇第一のお務めであるという大原則に立てば、入江侍従長らが工作する無原則の祭祀簡略化がどれほど受け入れがたいことだったでしょうか。


▽7 昭和50年8月15日の長官室会議

 風岡次長は3年前の平成20年2月、「昭和の時代にも、次第にお年を召されつつあった昭和天皇のご負担軽減という観点から、累次、所要の調整が行われた経緯があります」と、あたかも当時の「調整」が昭和天皇のご高齢が理由で行われたかのように説明しています。

 しかし、「簡素化」が始まった昭和43年といえば陛下はまだ60代です。46年秋にはヨーロッパを、50年秋にはアメリカを、香淳皇后とともに訪問されています。半月もの長旅に耐えられるのは「高齢」ではありません。

 祭祀破壊の原因が「高齢」ではないのなら、真因は何でしょうか。当時を知る宮内庁OBは憲法の政教分離問題だと説明します。

「戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちがそろって定年で退職し、代わって他の省庁から幹部職員が入ってくるようになった。新しい職員は『国家公務員』という発想が先に立ち、皇室の伝統に対する理解は乏しかった。新興宗教と見まごうほどに厳格な政教分離の考え方が宮内庁中にはびこり、なぜ祭祀に関わらなければならないのか、などと、側近の侍従職までが声を上げるようになり、祭祀から手を引き始めた」

 膨大な日記に宮中祭祀の神聖さを何ら記録しなかった「俗物」侍従長が執念を燃やした祭祀の形骸化は、富田朝彦・内閣調査室長が49年秋に宮内庁次長となり、長官に就任するころ、舞台を「オモテ」に移し、激化します。日経新聞がスクープした富田メモで知られる富田長官は、無神論者を自認していたと同時の関係者が証言しています。

 大きなうねりのようなものが宮内庁を含む行政全体を襲い、そしていよいよ、戦後30年の昭和50年8月15日、宮内庁長官室の会議で、祭祀の改変が決められました。

 入江のこの日の日記には「長官室の会議。神宮御代拝は掌典、毎朝御代拝は侍従、ただし庭上よりモーニングで」とあり、昭和天皇最後の側近といわれる卜部亮吾侍従の翌日の日記には「伊勢(神宮)は掌典の御代拝、畝傍(神武山陵)は侍従、問題の毎朝御代拝はモーニングで庭上からの参拝に9月1日から改正の由。小祭の御代拝は掌典次長を設けてこれに、など」と記されています。

 卜部が記録しているように、最大の変更は毎朝御代拝だったようです。

 天皇に代わって側近の侍従に拝礼させる毎朝御代拝を、側近たちは、宮中三殿の前庭のなるべく遠い位置からモーニングを着て拝礼する形式に変えました。侍従は国家公務員だから、祭祀という宗教に関与すべきではない、というのが理由で、拝礼場所と服装の変更は神道色を薄めるための配慮とされます。「従前の例に準じて」とする昭和22年の依命通牒は反故にされました。

 行政は宗教行為にいっさい関与すべきでないというのなら、公営斎場や墓地、公的追悼行事も許されません。布教を想定していない宮中祭祀が国民の信教の自由を侵すはずもなく、政教分離は理由になりません。

 このほか、御代拝に関する重大な変更がなされました。天皇の御代拝は公務員である侍従から内廷職員、つまり天皇の私的使用人という立場にある新設の掌典次長に代わり、皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝は廃止されました。皇后陛下、両殿下は御代拝の機会さえ奪われたのです。近年、雅子妃殿下が平成十五年以降、「祭祀にいっさいご出席ではない」と批判されるのは、この一方的なご代拝制度廃止に原因があります。

 奇しくも昭和天皇が歌会始で「世の平らぎをいのる朝々」と詠まれたその年、天皇の祭祀は側近たちによって改変されたのでした。

 拙著にくわしく書きましたが、天皇の祭祀は国と民をひとつにまとめる機能を持っていると考えられます。多様なる国民を多様なるままに統合する多神教的、多宗教的文明の核心です。一神教世界で生まれた政教分離原則で規制するところに無理があります。

 昭和天皇は61年の新嘗祭まで親祭を貫かれましたが、悪しき先例は平成のいま踏襲されています。祭祀王たる天皇の本質を見誤り、いわば誤った憲法解釈・運用に忠誠を誓っているのです。「つねに国民の幸せを祈るというお気持ちをかたちにしたものとして祭祀がある」と語るほど、祭祀への理解が浅からぬ前侍従長でさえ、天皇の祭祀は私的行為であるという占領前期の憲法解釈から抜け出せずにいるようです。


▽8 勇気ある掌典補の問題提起

 昭和40年代に始まる祭祀の改変の実態は、いまでこそ側近たちの日記によって知ることができますが、当時は関係者以外、ほとんどうかがい知ることができませんでした。驚きの事実が明るみに出たのは、昭和57年暮れに現職の掌典補である永田忠興氏が、勇気をもって学会発表したことがきっかけで、翌年の年明け早々、「週刊文春」がこれを大きく報道すると、大騒動に発展しました。

 同誌の記事が指摘した祭祀の「変更」は、先述した、(1)旬祭御代拝、毎朝御代拝の変更、(2)伊勢神宮での皇太子御代拝の変更、(3)皇族の御代拝の変更など、6点に及びました。

 この報道に対して祭祀重視派の対応は慎重でした。官僚たちの判断と陛下のご判断との関係が微妙であること、内廷のことは天皇の聖域であって、陛下のご心中を拝察すればただちに公開討論するのははばかれる、という冷静な判断があったからです。

 しかしその姿勢がほどなくして一変します。憂慮する照会者に対して、宮内官僚たちが紋切り型の対応に終始し、「祭祀は天皇の私事」とする占領時代前期の古臭い憲法解釈を繰り返していたからです。破られてはならない原則が踏みにじられている現実を知って、尊皇派は危機意識を強め、「もはや遠慮は許されない」と及び腰の姿勢を転換させ、一気に痛烈な批判行動へと向かったのでした。

 とくに、事態を重視した神社本庁は、澁川健一事務局長名による抗議の質問書を提出し、いま宮内庁当局者が「祭事は陛下の私事以外には扱えない」と語っているのは見解が変わったのか、と詰め寄りました。

 紆余曲折の末、宮内庁は東園基文掌典長名による「公式見解」を発表し、祭祀はすべて「陛下の私事」とする一般に流布する解釈ではなくて、「ことによっては国事、ことによっては公事」とする神社人の主張を明確に認めました。けれども祭祀の改変はさらに進んだことが「入江日記」に記録されています。

 それから30余年、平成の祭祀簡略化が進行しています。宮内庁の見解はふたたび変わったのでしょうか。それとも東園回答書が方便に過ぎなかったのでしょうか。他方、平成の尊皇家たちから、抗議の声はほとんど聞こえてきません。

 それかあらぬか、天皇の権威は失墜するばかりです。羽毛田長官は、皇族の意見も聴かないままに女帝容認の皇室典範改正を急ぎ、民主党政権に秋波を送りました。鳩山内閣は中国の習近平副主席のゴリ押し天皇会見を強行し、菅内閣は歌会始の日に内閣を改造しました。

 保守派も革新派も憲法論議といえば、「9条」ばかりで、第1条を考えていません。その結果、天皇はさしずめ名目上の単なる「象徴」に成り下がっています。

 渡邉前侍従長は前掲「諸君!」インタビューの最後に、憲法論に言及し、「今上陛下はご即位のはじめから現憲法下の象徴天皇であられた」と述べています。

 象徴天皇制について、陛下は会見などでしばしば触れられていますが、前侍従長とはニュアンスが異なるのではないでしょうか。ごく簡単にいえば、前侍従長はあくまで現行憲法を起点とする象徴天皇制ですが、陛下は歴史的な背景を十分に踏まえた上での議論だと思います。歴代天皇が祭祀の力で国と民をまとめ上げてきた長い歴史があるからこそ、象徴たる地位がある、というお考えでしょう。

 渡邉前侍従長によれば、たび重なる祭祀簡略化の進言に、陛下は「『自分はまだできるから』とおっしゃって昭和天皇に倣うことをお許しになりませんでした」(前掲渡邉著書)。昭和の簡略化を間近でつぶさにご覧になり、いま祭祀王としてのお務めを十分に自覚される陛下なら当然です。

 昨年(22年)暮れの誕生日会見で、陛下は「今のところこれ以上大きな負担軽減をするつもりはありません」と述べられました。頼みとする尊皇家たちが沈黙するなか、陛下はたった一人で国と民のために祈られている。その文明的価値を国民が1人でも2人でも多くなることを、心から願わずにはいられません。(筆者注。引用文は適宜編集しています)

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