即位式、3度の変遷。仏式が神式化したのではない──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 3(2017年10月12日)
明治になって神仏分離が行われたことは誰でも知っています。神仏習合の清算から激しい廃仏毀釈へと転化した地域もあります。宮中行事も激変し、仏事は全廃され、歴代天皇の御霊牌などを祀るお黒戸は撤去されました。
そのため、皇室行事は仏式から神式に変わったとか、宮中祭祀は明治の創作だなどと断定する研究者もなかにはいるようです。けれども、正確には、幕末の宮中では仏教のほか、陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたというのが、真相のようです(『明治維新神仏分離史料』など)。
陰陽道が排除され、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わり、端午、七夕などの五節句が廃されたという歴史は、仏教から神道への変換という単純な図式では捉えきれないでしょう。
▽1 「神武創業の始めに原き」
関根正直は、天皇の即位式には歴史上、3度の変遷がある、太古以来の国風が、古代に唐制風に改められ、そして明治になって神武天皇ご創業の古(いにしえ)に復したのだ、と説明しています。
関根によれば、即位式は神武天皇の時代から行われており、その内容は『古語拾遺』(斎部広成。807年)によってうかがい知ることができるといいます。
これによると、神籬(ひもろぎ)を立て、神々をまつり、宮門を守り、矛盾(ほこたて)を造り備えて、天璽鏡剣を正殿に奉安し、瓊玉(けいぎょく)を懸け、幣物をつらねて、祝詞(のりと)を申し、云々とあります。
関根は、こうした即位の神事は奈良時代までひきつづき行われたであろうと推測しています。持統天皇の即位礼の場合も、同様に神璽鏡剣を奉り、寿詞(よごと)を奏する国風儀式が行われたと記録されています。
ところが、その後、いまでいう国際化に伴う唐風化が起こりました。
関根の説明では、古代朝鮮や支那政府との交流が始まり、時勢の影響や政治上、国交上の必要から、御即位の盛儀をもっぱら内外に示す方向に進み、服飾旌旗(せいき)などもすべて唐制に改まり、大極殿という唐風の宮殿で挙行されるようこととなりました。
他方、古来の国風儀式は廃止されたというのではなくて、神璽鏡剣を奉上し、天神(あまつかみ)の寿詞を奏する儀式などは、ほとんどが大嘗祭の方に移され、行われ、伝えられることとなったのでした。
そしてようやく明治になり、唐風が廃せられ、神武天皇の祭典式に復された、と関根は説明しています。王政復古の大号令には「諸事、神武創業の始めに原き」とありました。
▽2 平成の御代替わりは何だったのか
関根によれば、御代替わり諸儀礼は、明治維新期に仏式から神式に変わったのではなくて、唐風から国風に復されたということになります。
とすれば、「即位の礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」からなる、新「即位の礼」を「国の行事」(国事行為)として行い、他方、神武天皇即位にまで遡れる大嘗祭は憲法上の国事行為として行うことは困難とされ、「皇室行事」として挙行した先の御代替わりは、いったい何だったのでしょうか。
関根の表現を借りれば、「4度目の変遷」となった、日本国憲法風の平成の御代替わりの功罪を、あらためて検証しなければならないと私は考えますが、いかがでしょうか。いまのままでは悪しき先例が繰り返されるだけでしょう。
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