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御代替わりを攻撃する日本キリスト教協議会リポートの不信仰(令和3年2月28日、日曜日)


▽1 聖書は「王」への敬意を要求している

日本のプロテスタント教会・教団・関係団体で組織される日本キリスト教協議会(NCC。東京・新宿区)が今月23日、令和の御代替わりについて「総括」する文書を発表した。

取りまとめたのは靖国神社問題委員会(委員長=星出卓也・長老教会牧師)で、いわゆる靖国問題をテーマとする特別委員会によるリポートであるところに、すべてが言い尽くされている。端的にいって、本来のキリスト教信仰に似つかわしくない政治文書である。わざわざ天皇誕生日という佳日に合わせたのには悪意すら感じられる。

「2019-2020『天皇代替わり』を総括して」と題する報告書はわずか9ページで、「国民統合の象徴としての天皇の強化」「侵略加害の歴史を解決済みのようにした天皇の公的行為」「代替わり儀式における天皇神格化の問題」など、苔が生えたような見出しがしたり顔で踊っている。

「天皇代替わり」「明仁天皇から徳仁天皇への交代」などという冷淡な表現には、近代日本のキリスト者が大切に保持してきた、天皇に対する尊敬の念などはカケラも感じられない。

そればかりではない。NCCの反天皇主義はプロテスタントにあるまじき反聖書主義と映る。なぜなら聖書は「すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王(the emperor)を敬いなさい」(共同訳、ペテロの手紙一)と「王」への敬意を要求しているからだ。NCCは逆に不信仰を求めている。

プロテスタントにとって聖書の教えは絶対なはずだ。NCCの関係者は反天皇主義=反聖書主義の矛盾を感じないのだろうか。日本の建国以来、少なくとも千数百年、国の中枢に位置し続けてきた天皇への敬意なくして福音宣教の成功など、現実的にあり得ないだろうに。


▽2 大嘗祭は「稲の祭り」なのか

もう一点、指摘すると、NCCリポートには、といってNCCに限ったことではないし、すべてNCCの責任ではないのだが、重大な事実誤認があると思う。すなわち、御代替わり最大の儀礼・大嘗祭の中身と意義である。

リポートは、「大嘗宮の儀」について、まず「政府見解」を引用したうえで、稲作社会の収穫儀礼で、かつ皇位継承の重要儀式という「古来の伝統」が強調されているが、戦前の政府解釈はそうではなかったと指摘している

つまり、文部省『大礼の要旨』(1928年10月)には、「大嘗祭は遠く神代の昔より行はれたる最も重大なる祭祀にして、御代の初、新穀にて造りたる御饌・御酒を皇祖天照大神を初め、天神地祇に御親ら捧げ給ひ、御親らも之を聞こしめすをいふ」とあって、その意味は「伝統」を越えた宗教的祭祀に他ならないと指摘するのである。

また、国定修身教科書『初等科修身巻四』(第五期、1943年~1945年)には、「大嘗祭こそ、大神と天皇とが御一体におなりあそばす御神事であって、わが大日本が神の国であることを明らかにする」とあり、戦前・戦中の解釈では、大嘗祭は至上の神事であること、天皇は、大嘗祭において、天照大神と一体となること、神となることが明白に指摘されていたと解説している。

つまり、大嘗祭の宗教的性格は疑うべくもない。新天皇は大嘗祭を通じて、天照大神と一体になる宗教的な存在になったことが公式に示され、日本が天皇=神によって治められる神の国であるという教義が宣伝された。したがって、政教分離原則に違反すると判断されるというのである。皇室祭祀が憲法を越えた治外法権となることを既成事実化するとも述べている。

だが、しかし、である。政府の見解自体が誤っているのである。

リポートが引用する「政府見解」は30年前の平成の御代替わりに際して、ある著名な神道学者の学問的見解に基づいてまとめられたものと考えられる。この研究者の責任こそきびしく問われるべきだが、大嘗祭は断じて「稲の祭り」ではない。稲作信仰・稲作儀礼ではない。新帝が手づから皇祖神ほか天神地祇に捧げられ、祈り、直会なさるのは米ではなく、米のみではなく、米と粟だからである。

その点、戦前の修身の教科書が「新穀」と記しているのはむしろ正しい。天皇が大嘗宮でなさる神事の内容は古来、秘儀とされてきたが、関係者や研究者の間ではよく知られている。NCCのリポート作成者は、「政府見解」を検証する程度ではなく、天皇の祭祀の実態について学問的にもっと深めるべきだ。


▽3 自分の目にある梁に気付かない

大嘗祭が天孫降臨神話に基づく稲の祭りだとすれば、新帝は天照大神に稲を捧げれば済むことだ。大嘗宮を建てる必要もない。賢所で十分だろう。しかし実際は大嘗宮が設営され、皇祖神のみならず天神地祇が祀られ、米と粟が捧げられる。なぜ大嘗宮なのか、天神地祇なのか、なぜ粟なのか。粟は天孫降臨神話には登場しない。NCCは考えたことがあるだろうか。

キリスト教世界ならキリスト教の神に祈る。それ以外はあり得ない。イギリス国王の戴冠式は荘厳なる大聖堂で行われる。熱心な国教会の信徒は戴冠ミサに共感し、感動し、新国王に忠誠を誓うはずだが、イギリス国民はアングリカンばかりではない。カトリックやイスラム、仏教を信じる国民は、強い疎外感を覚え、NCCの関係者と同様に手酷い批判を加えねばならぬのだろうか。それどころか、NCCの論理に従うなら、教会での戴冠ミサは信教の自由を侵すと指摘せねばならないだろう。

日本の天皇は古くはスメラギ、スメラミコトなどと呼ばれた。国と民をひとつに統合することが最大のお役目である。だとしたら、キリスト教世界とは異なり、多神教的な日本では、天皇第一の重儀は一神教的ではあり得ない。皇祖神のみならず、民が信ずるあらゆる神を祀り、「国中平かに、民安かれ」と祈るのはそのためだろう。当然、神饌は米だけではあり得ない。

大嘗祭は宗教儀礼というより、国民統合の国家儀礼なのである。カトリックの場合は中国皇帝が行う孔子崇拝の儀礼参加を認めたが、それは宗教儀式ではなくて国家儀礼だからだ。この適応政策によってカトリック信仰は高級官僚たちに広がっていった。

新帝の大嘗祭の祈りは、論理的にいえば、日本のプロテスタントが信じる神にも捧げられていると私は思う。そうでなければ、スメラミコトたり得ないからだ。だとしたら、NCCの面々はそれでも大嘗祭を政治的に攻撃し続けるのだろうか。たとえ刃向かう者であれ、すべてわが赤子と信じて公正かつ無私なる祈りを捧げる天皇に、徹底して刃向かわねばならぬのか。

キリスト教世界の教会式儀礼には目をつぶりつつ、天皇の儀礼にのみ矛先を向けるのは、キリストがもっとも批判した偽善者を演じることにならないか。主イエスは言われたのではないか。「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか」(ルカによる福音書)と。まして、ありもしない「おが屑」を偽造してはならない。

最後に蛇足ながら、昭和天皇は天皇=現人神説を否定されていたことを補足しておく。詔に「明つ神とあめのした知らす天皇」とあるのは明つ神=天皇の意味ではないからである。天皇=現御神とする「国体の本義」(文部省、昭和12年)の解釈は誤りであろう。

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