萩焼の酒器で地酒を汲みつつ日韓を思う──秀吉の命令で連行された朝鮮陶工の悲史(「神社新報」平成11年4月12日号)
(画像は萩焼。山口県観光連盟HPから拝借しました。ありがとうございます)
いきなり私事で恐縮だが、記者は「賊軍の末裔」である。母方の曾祖母は戊辰戦争のなさか、慶応4(1868)年夏、奥州二本松城落城から半月後に生まれた。
薩摩軍を先鋒とする「官軍」が攻め寄ってきたとき、決戦を目前にして、藩中の老幼子女は夜陰にまぎれて城外に脱出した。曾祖母を生んだ臨月の女性もその1人らしい。
素性を隠して生きなければならなかったのか、詳しいことは分からないが、1人息子の祖父は夫婦喧嘩のとき、妻を「平民の子」と毒づいた。
そんな記者が不思議に薩長の人とご縁がある。この(平成11年)2月も山口を旅した。「敵地」に足を踏み入れるのは3度目である。
夜、萩市内の赤提灯で萩焼の酒器で地酒を汲みながら「オレは会津の生まれだ」と告白したら、客がいっせいにふり返った。寒風吹きすさぶ萩の街は祖先の悲しい歴史を思い起こさせ、何ともいえない萩焼のぬくもりは秀吉に連れてこられた朝鮮陶工の哀歌を蘇らせる。
そんなわけで、今回は萩焼を取り上げる。
▢ 輝元が朝鮮の役で連れ帰る
▢ 「萩焼の開祖」李勺光と李敬
萩焼は本来、茶道においてもっとも重んじられた。「一楽、二萩、三唐津」などと粋人はいうらしい。
萩焼を育てたのは茶人として名高い西国の雄藩・毛利家の藩公たちであった。
萩焼の歴史は豊臣秀吉による朝鮮出兵に始まる。秀吉は東アジアの統一を夢見て、全国から武士ばかりか町人、百姓まで30万人を大動員した。
日本軍の総帥は毛利元就の孫・輝元で、4万の兵を率いて、みずから玄界灘を渡る。
文禄元(1592)年4月、釜山に上陸した日本軍は破竹の勢いで進軍した。5月には漢城(ソウル)が陥落し、6月には無抵抗で平壌を占領、救援に駆けつけた明軍を撃破する。
秀吉軍には鉄砲があったが、朝鮮軍は弓矢しかなく、勝ち目はなかった。鉄砲の音を聞いただけで逃げ出すものも多かったという。
ところが、である。
連戦連勝のはずなのに、秀吉軍は敗退する。朝鮮民衆の根強い抵抗と水軍の活躍、明の援軍で撤兵を余儀なくされたといわれているが、薩摩焼14代の沈寿官氏はそうではなく、多くの武将が朝鮮軍に寝返ったため、と解いてみせる(『NHK歴史発見7』)。
韓国の人たちが「壬申(じんしん)倭乱」「丁酉(ていゆう)倭乱」と呼び、「有史以来最大の危機」(金大中『獄中書簡』)としていまなお大きな恨みを残す文禄・慶長の役。
このとき日本軍は多くの書籍を戦利品とし、数万の文化人・技術者を連れ帰った。
日本にとって、それらは戦乱で荒廃した文化を復興させる一助となったが、李氏朝鮮の文化は衰え、高麗朝の水準にも達しないようになり苦しんだ、と「戦後唯一の神道思想家」葦津珍彦氏が書いている(『アジアに架ける橋』)。
西日本に多くの陶工が帰化し、唐津焼、薩摩焼などの焼き物が起こったのは、このときである。
千利休によって完成された「侘び茶」でもっとも好まれたのは、「高麗茶碗」である。利休の弟子で、大茶人であった輝元は文禄の役のとき、秀吉の指令もあって、高麗焼物細工累代家伝の秘法を熟知していた李勺光らを連れ帰った。
李勺光は秀吉に招かれ、摂津に住まっていたが、その後、輝元に預けられ、安芸・広島で窯を開いた。しかし、陶磁器の生産には人手が要る。それで次なる慶長の役で、弟の李敬夫婦らが連れてこられたという。
この李勺光・李敬兄弟が萩焼の開祖とされる。
関ヶ原の戦いのあと、輝元は中国8カ国112万石を家康に取り上げられ、防府、長州2国29万石に減封された。慶長9(1604)年11月、輝元は新たな居城となった萩に入府する。李勺光らもこれに従った(『萩市史』など)。
李勺光は城下松本村中之倉に屋敷を与えられるとともに、裏山を薪山として下賜され、開窯を命じられた。こうして萩焼が成立する。
▢ 5代目で断絶した山村家
▢ 継承される「高麗左右衛門」
李勺光は食禄五人扶持、御切銭(銀)250目の待遇を与えられ、「御細工人」に召し抱えられた。
「一人扶持」とは武士1人1日の標準生計費用を米5合と算定して、年間1石8斗つまり5俵を支給することで、「五人扶持」は九石(25俵)の扶持米支給ということになる。御切銭は臨時の現金給与という。
李勺光らは士分としての待遇を受け、藩主の御用にのみ携わった。
茶人輝元と陶工李勺光との間に人間的な交流はなかったのだろうかと思って、調べてみたが、それらしいものは見当たらない。
というより、李勺光について伝えられるものがほとんどないらしい。母の名も妻の名も分からない。一児をもうけたあと、死没したようだが、いつ、どこで死んだかも不明である。
李勺光の遺児は叔父の李敬に育てられ、成人後は山村新兵衛光政と称した。亡父と同じ待遇を受け、「高麗焼物細工御茶人之家」として正式に召し抱えられ、寛永2(1625)年4月に藩主秀就から「作之允(さくのじょう)」に任じられる。
「松本窯薪山御用焼物所惣都合」役を命じられて御用窯の陶工を統率し、父子2代で萩焼の地位を確立した。
光政はのちに城下北古萩町に居屋敷を支給され、門弟2人を従えて、移り住んだ。また僧形となって松庵(正庵)と号した。
寛永18(1641)年に囲碁の争いが高じて、藩士を殺害するという事件を起こす。異国人ということで、藩は「おかまいなし」とするが、17年後の明暦4(1658)年2月、相手の遺児と弟に仇討ちされたという。
一方、坂本助八を名乗り、改姓して坂助八と称した李敬は、寛永2年11月に藩主秀就から「高麗左衛門」に任じられ、坂高麗左衛門と称した。甥の光政と同様、「御細工人」として食禄三人扶持、米9石を授けられ、さらに居屋敷5反8畝20歩と薪山をあてがわれる。寛永20(1643)年2月に58歳で他界した。
悲しいことに、李勺光直系の山村家はその後、断絶する。
安永3(1774)年、名工の誉れが高かったという5代源次郎光長は養子源右衛門への家督相続の許可が下りないうちに63歳で病没し、その喪中に源右衛門は城内で喧嘩の末に抜刀する。折悪しく、萩屈指の旧社春日神社の祭礼の日であった。源右衛門は遠島処分となり、家禄は没収されてしまう。
他方、坂高麗左衛門は時代の波に耐えながら、継承されている。現在は12代目という(河野良輔『陶磁大系14 萩・出雲』など)。
▢ なぜ陶工を連れ帰ったのか
▢ なぜ帰還しなかったのか
朝鮮出兵で連れてこられた捕虜の数は全体で2万とも3万ともいわれるが、とくに文禄・慶長の役が「茶碗戦争」と称されるほど、多くの陶工が連行されたのは、なぜであろうか?
このとき連れてこられた陶工を祖先に持つ、薩摩焼の沈寿官氏が興味深い解説を書いている。
フランスの友人がこう語った。「日本の焼き物には銘が刻まれているが、韓国李朝の名品には銘がない。日本の焼き物は幸せだ。自分を主張できるからね」
沈寿官氏の頭の中で疑念が膨らんだ。高麗や李朝の工人たちはあれだけ美しい名品を作り上げながら、なぜ生きる証としての名前を刻まなかったのか。焼き物に対する考え方が違うのではないか?
作家の司馬遼太郎氏に疑問をぶつけてみた。司馬氏は当時のキリスト教宣教師の記録を語ったという。
戦の論功行賞といえば、一国一城が与えられるのが普通だが、信長の時代には茶碗が与えられた。もらった家臣は不満に思うどころか、躍り上がって喜んだ。宣教師はその異様な光景に驚き、「私たちが宝石を愛するように、日本人は焼き物を愛している」と本国に書き送っている。
インド以西の国々では宝石を美の頂点に置いた。しかし中国や朝鮮には、白玉や翡翠(ひすい)などの玉を美の頂点とし、次に金・銀と続く美の体系がある。焼き物ははるか下方に位置づけられた。
ところが、宝石も玉も産しない日本は、まったく異なる。
室町時代になって、中国や朝鮮の陶磁器が日本に入ってきた。硬質に焼きしめられ、釉薬で装い、キラキラと色鮮やかに輝いている。日本人は美しさに目を見張り、陶磁器に玉や宝石と同等の価値を与えた。
やがて陶磁を頂点とする美の体系が組み上げられるのだ。
文禄・慶長の役以前、日本の焼き物は恥ずかしいほど遅れていた。釉薬のかかった焼き物はほんのわずかしか産しない。
ところが、朝鮮に渡ってみると、李朝の陶磁は美しく花開き、白磁はキラキラと輝いていた。とくに粉青沙器(ふんせいしゃき。高麗青磁の流れを汲む、李朝前期の陶磁器で、日本では三島と呼ばれる)の面白さは日本人の心に深く食い込んだ。
ここに多くの陶工が日本に連行されることを余儀なくされた理由がある、と沈寿官氏は説明する(『韓国のやきもの3 李朝』)。
▽ 暖かく保護された陶工たち
しかしさらに興味深いのはその先である。葦津珍彦氏がこう書いている。
江戸時代になって、日朝間に和平が急転し、連行された陶工たちをすべて帰還させることが約束された。ところが帰還者が集まらなかった。
囚われの身のはずの陶工たちは暖かく保護されたから、特権者が専制支配する暗黒の祖国に帰ることを欲しなかったのである。
帰国者を集めるための当時の高札がいまも残されているというのだ(『朴鐵柱大人を偲ぶ』)。
近代日本が生んだ代表的キリスト者で、優れた新聞人でもあった徳富蘇峰によると、家康は対馬の宗氏を仲介として日朝関係の回復を進めた。朝鮮側の条件は捕虜の送還であったから、日本側は捕虜を陸続として帰還させ、和親に努めた。
朝鮮王家の陵墓を犯した罪人問題も解決して、和議は成立する。
そもそも朝鮮の役で、朝鮮は日本軍だけでなく、援軍であるはずの明軍によって踏みにじられ、それ以上に自国の軍隊と暴徒のために荒らされた。飢餓が発生し、植えた人々は互いに殺し合い、人肉を食らうというありさまだった。
官職が売買され、日本人の首ひとつを斬れば、すぐさま武官に採用された。ところが日本軍が朝鮮人を殺戮するどころか、明軍あるいは朝鮮人が朝鮮人の首をはね、日本人の首の代わりとした。
明軍は徴用・徴発し、苦しめた。しかし民衆を苦しめた最大の元凶は朝鮮政府そのものだった、と蘇峰は書いている。
こうして多くの朝鮮人が日本軍および明軍の捕虜や奴隷となって、売り払われた(『近世日本国民史』)。
日本に連れてこられた陶工に切々たる望郷の思いがなかったはずはない。けれども、儒教によって律せられる朝鮮では、工人はもっとも卑しい人種で、名もなく貧しい生き方を押しつけられた(沈寿官『韓国の焼きもの2 高麗』)。
それが日本では帯刀さえ許されたとすれば、帰化を選んだとしても不思議はない。
『朝鮮王朝実録』によれば、帰還者はわずかに5720人で、「九牛一毛」であったという(内藤雋輔『文禄慶長役における被擄人の研究』)。
しかし帰国と帰化といずれが幸せだったのか。
故国の土を二度と踏むことはなかった朝鮮陶工の悲痛を思いつつ、萩で見つけた大吟醸を、萩焼のお猪口に注いだ。口に含むと、悲しみを超えたまろやかさが舌を撫でる。
わが祖先よ、仇敵の美酒に酔い痴れる愚者を赦したまえ。
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