斎藤吉久

昭和31年、崇峻天皇の后・小手姫が養蚕と機織りを教えたと伝えられる福島県・小手郷に生ま…

斎藤吉久

昭和31年、崇峻天皇の后・小手姫が養蚕と機織りを教えたと伝えられる福島県・小手郷に生まれる。弘前大、学習院大を卒業後、雑誌編集記者、宗教紙編集長代行などを経て、現在フリー。著書に『天皇の祭りはなぜ簡略化されたか』など。「戦後唯一の神道思想家」葦津珍彦の「没後の門人」といわれる

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鎌倉のセンセの思い出 2 最後の「背広の神道人」が作った海の森

センセは筥崎宮の神職の血を引く社家の家系に生まれた。親族には神社関係者が多い。だが、センセ自身は神職になる道を選ばず、大学卒業後はビジネスの世界に飛び込んだ。「外の空気を吸うことが大切」と考える父君の影響とも聞いた。父君と同様、センセも「背広の神道人」の人生を歩んだ。 お付き合いするようになったころ、センセは神社関係の専門紙の経営に関わっていた。総合情報誌の編集記者と取材先の神社関係者という間柄だったが、やがて私はセンセのもとで働くことになった。 ちょうど平成の御代替わり

    • 鎌倉のセンセの思い出 1 葦津珍彦先生歿後25年の墓参

      先月、鎌倉のセンセが亡くなった。お付き合いするようになったのは、まだ二十代のころだったから、もう40年になる。 最後にお会いしたのは、センセの父君、戦後唯一の神道思想家と称される葦津珍彦先生の歿後25年の集まりだった。ごく親しい10人が呼ばれたのだが、思いがけず私もその末席を汚すことになった。 駅の西口に集合したとき、すでにセンセが待ち構えていた。帽子をかぶり、杖をついていた。以前より痩せていた。退院したばかりとのことだった。 しかし饒舌だった。そして元気だった。奥津城までは

      • 宮中新嘗祭「粟の御飯」の調理法への疑問

        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 宮中新嘗祭「粟の御飯」の調理法への疑問 (令和4年11月6日、日曜日) ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 前回、書いたように、宮中新嘗祭の粟の御飯(おんいい)を再現する実験を繰り返し試みている。 もち粟ともち米を5対1の割合で混ぜ合わせ、数時間、吸水させたのち、炊飯器のおこわモードで炊いてみた。おにぎりにすると、もうこれ以上、もち粟の比率を上げるとポロポロに

        • 宮中新嘗祭の「粟の御飯」を再現する

          ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 宮中新嘗祭の「粟の御飯」を再現する (令和4年11月3日、文化の日) ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 今日は文化の日であるが、そのことについてではなく、あと3週間で祭日当日となる宮中新嘗祭の「粟の御飯(おんいい)」について書こうと思う。 じつはこのところ「粟の御飯」を再現する実験を繰り返し試みている。 天皇は神嘉殿で神前に米と粟を捧げて祈られる。そのとき竹折箸

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