見出し画像

nikki 20220726

何か後ろめたいことを抱えながら書く文章は、わかりにくいものになる。社会人として生きてきて学んだことのひとつだ。文法が間違っているわけでもない、難解な単語があるわけでもない、それなのにわかりにくい文章があるとき、それは文脈を隠そうとしている、気がする。どうしてその文章を書くに至ったのか、その文章が必要になった文脈を、何らかの理由で切り離した文章。これは文章の体裁を整えた(気になっている)怪文である。わかりやすい文章を書く方法は、国語を勉強することと、隠さず書くことなんじゃないかなぁと、社内チャットのディスコミュニケーションを浴びながら考えた。
私は比較的文章がうまいと自己評価しているけれど、それは文章を書くときに嘘をつかないからかもしれない。嘘をつかないというか、嘘になることは書かないというか。文章で嘘をつくのは口で言うよりかなり難易度が上がる。文章には抑揚や、音程や、緩急というテクニックを盛り込みづらい。そして、書いたことはずっと目に見える。ログに残る。おかしな部分や論の破綻も、全部が丸見えである。これは相手に対してもそうだし、何より自分に対しても作用する。自分の文章を目の前にしながら文字を打つことは、常に自分の文章を客観視することである。つまり文章を書く/タイピングするという行為は、自分で自分の文章を客観視し続ける行為であり、嘘を通し続けることがかなり難しい行為なのではないだろうか。
文章を書くコツは、嘘をつかないことだ。もっと言えば、思ってること以外は書かない方がいい。もし、思ってもないことを書いたならば、それは高確率で意味不明な文章になる。そして、相当な技術がない限り、嘘をついた文章の意味不明さはバレている。「いかがでしたか?」という無価値なPV目的ブログの語尾がネットスラングになったように、書き手が思う以上に、読み手は意味不明な文章に隠れた嘘に気づいている。
嘘がばれた文章は悲惨だ。読む価値がなくなるからである。それはもう文章というか、嘘をつかなければと思った書き手の言い訳でしかない文字の羅列に落ちぶれる。そうなってしまった場合はそこから真意を読み解くより、「怒らないから本当のことを教えて」と、新たな文章を作らせた方が早いだろう。これが一度の過ちならばまだ良いが、さらに悲惨なところに「嘘しか書けなくなった狂人」パターンもある。
嘘しか書けなくなった狂人は、基本的に嘘をついているという意識はない。彼らはとにかく、思ってもないことを書き続けてしまうという悲しい円環に取り込まれている。世間が良いといった商品をおすすめし続けたり、常識的に良いとされている概念を良いと書き続けたりした結果、書くものすべてが空虚で、本人の意思が介在しなくなってしまった人たちである。
こうなってしまったらもうどうしようもない。その人が書く文章はすべてが破綻している。読み手側としては、もはや同じ言語とは考えずに暗号を解読するかの如く扱っていくしかないだろう。

文章がわかりにくいすべての人よ、嘘を書くな。隠すな。自分でそうだと思えないことを文字に乗せるな。
お前が嘘をついていることはもうバレているのだから。バレバレだから。
秘密を隠し通せるほど、お前は文章がうまくないのだから……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?