征夷大将軍が埼玉に何の用だ【嵐山町/東松山】
どもこんにちはゴケゴーちゃんです! 早速ですが今回は、台風19号の襲来でその名を全国に轟かせた
越辺川
よりスタートさせていただきます
越辺川。埼玉屈指の難読地名であろうと思われますが、ニュースで連呼されたおかげで県東の皆様もフツーに読めるようになりましたよね?
毛呂山は安定の「けろやま」でしたけどねwww
越辺川は「おっぺがわおっぺがわおっぺがわ」常に正しく報道されていました
実はこの「おっぺ」には
アイヌ語説があります
アイヌ語で「お」は豊かな、「っぺ」は川
豊かな川
が越辺川の本来の意味、おまけで言うと豊かな川が流れ着き土地が肥えるので川越は河肥とも書く、という先生もおられるのですが
幸手、札幌、日暮里など、小さな「っ」の付く地名はなんでもかんでもアイヌ語に結び付けてしまう風潮もあります
なのでアイヌ語説があることは存じておりましたが「そんなファンタジーな説もある」程度の印象で長らく捉えておりました
が、嵐山町の将軍沢にこんなものがあるのを思い出したんですね
坂上田村麻呂将軍塚
教科書にも登場する有名人ですね。簡単に説明します
坂上田村麻呂、平安時代の貴族軍人。桓武天皇に重用され、征夷大将軍として東北に遠征、宿敵、阿弖流為を降伏させ平安京へ連行する。京都清水寺を創建した
征夷大将軍とは
蝦夷を征討する将軍です
蝦夷とは、えみし、もしくはえぞと読みますが、蝦夷ラーメンと言ったらだいたい皆さん北国を思い浮かべると思いますので、そのイメージで良いのかなと思います
そんな征夷大将軍が埼玉の嵐山町でいったい何をしていたのか
笛吹峠のふもとに案内板がありますので見てみましょう!
坂上田村麻呂が軍勢を引き連れてこの地に滞在、岩殿の悪龍退治の準備に忙殺されていた。そこへ奥方が心配のあまり訪ねて来たが「大事な仕事をしにきてるのに、会わんぞ」大声で怒鳴った。翌朝、奥方が京都へ帰るためこの地に来ると、田村麻呂はこの坂の下まで来て「今より縁を切る、立ち去れ」宣言した。以来この橋を縁切り橋という
なんか予想外の展開になっちゃいましたね
私はただあの人のことが心配で心配で、だって松山の人って口悪いんでしょ?
そんなことないよお酒とか飲んだらみんな気のいいおっちゃんだよ。帰る前に一杯やってく? やきとりで
悪龍退治のストーリーにはいくつかのバージョンがあるのですが、そこはさほど重要ではないのでこんな感じというものを紹介しておきますね
観音様、仏教のチカラを借りているということだけ覚えておいて下さい
田村麻呂は岩殿に住む悪龍の居場所が分からず苦戦していた。悪龍は夏だというのに雪を降らせ田村麻呂軍を困らせた。田村麻呂は物見山へ上り四方を見渡す、すると一か所だけ雪の解けているところがある。これは観音様が悪龍の居場所を教えてくれているに違いない、矢を放ち悪龍を退治した
苦戦を強いられましたが、無事悪龍を退治することに成功した田村麻呂
彼のおかげで大昔の東松山には再び平和な日々が戻ってきたのでした、めでたしめでたし
では全くない気がするんですね
田村麻呂は蝦夷を征討するために派遣された征夷大将軍です
大事な仕事の最中だと奥様を怒鳴りつけ離婚までしちゃいました
征夷大将軍が
嵐山東松山で
大事な仕事をしていた
悪龍とは蝦夷、人間ですよね?
東北に赴く途中、たまたま立ち寄った村で悪龍退治を依頼された、的なよくある話ではなく
明らか東松山市と東松山民を標的にわざわざ京都からやってきてますよね?
深堀していきます、がその前に
坂上田村麻呂と嵐山東松山の物語は悪龍退治以外の形では残されていない、どころか別の将軍の話とごっちゃになっており、細かなところ、例えば何年のことだったのか、目的はなんだったのか、などがまるで分かりません
人間同士の戦いだったと書くわけにはいかない、なので実在するはずのない悪龍を持ってきて置き換えたのでしょうから、消された歴史、まあそういうことなんだとろう思います
つまり大部分がいつもの妄想になります。ちょっと重たい話になるので、そこは念押ししておきますね
鴻巣市の回、笠原と笠原が争い、鴻巣市笠原の笠原が勝利したという話を少しだけしましたが、負けた笠原がどこに住んでいたのかが実はまったく分かっておりません
えらい先生の多くは、勝った笠原はさきたま古墳群につながる一族なので負けた笠原も同規模の古墳を持つ一族であろうという根拠から多摩川沿い、田園調布を推すのですが
鴻巣行田vs田園調布
私はちょっと距離がありすぎるのかなあと感じるんですね。古墳の大きさが根拠になるのであれば、私は武蔵国最大級の前方後円墳、野本将軍塚古墳を有する東松山周辺を推したいと思います
野本将軍塚古墳。埼玉県で大きな古墳というと武蔵国最大の前方後円墳、さきたま古墳群の二子山古墳が思い浮かびますが、野本将軍塚古墳も二子山古墳に匹敵する大きさがあったであろうと考えられています。大正時代、隣接する野本小学校の校庭を整地する際「ここに土がいっぱいある」で削られてしまいの元々の大きさが分からなくなってしまったんですね、これも立派な歴史だと思います
五世紀末、さきたま古墳群に稲荷山古墳、東松山に野本将軍塚古墳、武蔵国最大級の前方後円墳が同時に出現する
覇権を巡り鴻巣行田東松山が激突する
勝利した鴻巣行田は勢力を拡大、さきたま古墳群にさらに大きな二子山古墳を築造する
うん、綺麗に繋がりますね
さきたま古墳群には行ったことがあるけれど野本将軍塚古墳には行ったことがないという方、もったいないです。ぜひ行ってこの階段から、ここですね、武蔵国最大級の前方後円墳を感じてみて下さい
圧という点でさきたま古墳群を大きく凌駕していると私は思います
ちなみに野本将軍塚の将軍は征夷大将軍坂上田村麻呂の将軍ではありません。古墳のてっぺんに利仁神社がありますが、将軍とはこちらに祀られている藤原利仁のことです。芥川龍之介の「芋粥」という作品の中に「そんなに芋粥が好きなら俺が腹一杯食わせてやんよ」言ったえらい方が登場しましたが、あの方が藤原利仁です。比企氏のルーツになる方です、この方と田村麻呂が一緒くたになっている印象がありますね
古墳時代の終わりははっきりしています。蘇我入鹿がブスッとやられた乙巳の変の翌年、646年の薄葬令です。お葬式は簡単にやりましょうということで、前方後円墳の築造が法律で禁止されました
そして存在感を増す吉見百穴に代表される横穴古墳群
埼玉の場合、三世紀末頃に登場した古墳は五世紀末から六世紀の頭にいちばん大きくなり、七世紀半ばの薄葬令以降激減、無くなったわけではないです、横穴古墳群となり、古墳か横穴に移行したわけではないです、別の文化を持った人たちがすでに入植していたということですね、その横穴古墳群も八世紀の初頭には終焉を迎えるという風に覚えておいて良いのかなと思います
そして
え、おまえらまだ古墳とか作ってんの? これからは寺だぜ
寺院の建立が始まります
武蔵国、埼玉東京横浜川崎における第一号寺院は
滑川町の寺谷廃寺であると考えられています。出土する瓦が奈良県飛鳥寺のものに近いことから時期は七世紀前半の可能性がある
これ物凄いことですよ、だってあの法隆寺にほんの少し遅れるだけですし、古代寺院は例えば坂戸市の勝呂廃寺から出土する瓦の枚数が膨大なことから規模もそれこそ奈良の大寺院と同じようなものがあったと考えられています
瓦って、皆さんあまり興味ないと思うんですけど
形で年代が分かる
土の成分で焼かれた場所が分かる
出土する枚数で寺院の規模が分かる
埋まっている位置で屋根の形まで分かることもあるそうです
こうならこう
こうならこんな感じですかね
だから滑川町あんまなめんなよ(ごめんなさい滑川なめんなちょっと言ってみたかっただけです)続いて寄居町の馬騎の内廃寺、川本町、現深谷市の諦光寺廃寺、以下、武蔵国古代寺院の一覧です、18カ所発見されているはずです
東京に一カ所、川崎に二カ所、桜区大久保領家に一つありますが、丸亀製麺の裏辺りですね、ほとんどが比企丘陵を中心とした埼玉県西部ですね
笠原の戦いに勝利した鴻巣笠原は戦いのサポートをしてくれた中央政府に屯倉、土地そのものを献上しました。その一つがヨコヌ、現在の比企郡吉見町あたりなのですが、東松山市東部、ピンポイントで攻めてくる資料もありました。野本将軍塚古墳はここに含まれますのでこちらの先生は勝った笠原は負けた笠原の領地をそっくりそのまま中央政府にくれちゃった、と考えているんでしょうね。ええ、私もそう思っています
中央政府は屯倉の管理をするため、渡来系の一族を比企地方に派遣します
寺院を作るのはとても大変です。建物の造営や教典の調達は京都の大寺院の援助なしには叶いませんし、僧籍に入れば公民としての納税や労役も免除されます、当然国府の許可も必要になります。当時の僧は中国語の経典を中国語、もしくは朝鮮語で読みます、そんなことの出来る人が当時の埼玉にいるはずはありませんので結局は僧も都の大寺院から派遣してもらうことになりました。つまり寺院の設置は中央政府と深いつながりがなければ出来ない事業でした
寄居町牟礼、古い朝鮮語で人の集まる場所「ムラ」という意味があるそうです。毛呂山の「モロ」も同じですね
川本町、現深谷市本田、凸版印刷のあるあたりは、かつて百済木郷と呼ばれていました
東松山市唐子、加羅の国のカラですね。もちろんそれぞれ異説もあります
比企を中心とした埼玉県西部に古代寺院が多く作られたのは、単純に渡来系の人が多く送り込まれていた、比企が中央政府の直轄地だったからということですね
八世紀前半、716年には日高市飯能市に高麗郡も建郡されます
しかし寺院の設置は八世紀後半になると弱まりをみせ、九世紀に入るとまったくまるで確認できなくなります
理由は、一つは当時の元々の埼玉県民に仏教の教えが浸透しなかった
冒頭のオッペと征夷大将軍が派遣されたというヒントから想像をすると、この辺りには渡来系ではない元々の埼玉県民、東松山民が住んでいました。彼ら彼女らにとって仏教とは異国の宗教です
田村麻呂に東松山討伐の命令を下した、かもしれない桓武天皇が渡来系というのは有名ですが、田村麻呂も渡来系、ぶっちゃけると実は最澄も空海も行基もみんな渡来系なんですね
要は仏教!仏教!盛り上がっていたのは当時の元々の埼玉県民から見て外国人とその子孫だったということです
そしてもう一つは中央政府、律令国家が「崩壊に向かう」という表現を使うのはまだ早い気がしますが、転換期を迎える、ピークアウトをしたのがこのあたりだったのかもしれません
ここにはまったのが坂上田村麻呂でした
田村麻呂の部隊は中央政府のエース部隊だったはずです。そのエース部隊が東松山を征討、弾圧という言葉の方が近いような気もしますが、わざわざ京都からやってきたのは、中央政府にとって比企はそれほど重要な意味を持つ地域だったから、他に考えようがありません
蝦夷=アイヌとは思いませんが、もしかしたらアイヌにルーツを持つ人たちが、もしくはアイヌの開いた土地に入った人たちが、はたまた負けた笠原の末裔が東松山周辺に存在し、例えば素直に仏教を信仰しない(仏教のいう浄土と黄泉というのはまるで逆の発想ですからね)些細なことだったかもしれません、中央に背を向けていた、阿弖流為の案件等も抱えていた此時の中央には焦りがあった、それが許容出来なかった
岩殿観音の参道を降りたところに、倒した悪龍の首を埋めたと伝わる池があります。何も言いますまい。結末はこのようになってしまいました
で、ここからが私の本格的な妄想なのですが、東松山には県西民なら誰しも一回は「なにが冷えてたんだろ」思ったことがあるであろう不思議な地名があります
古凍
古凍の凍は福島県郡山市の郡の当て字です。つまりここに古い郡があったと考えることが出来るのですが、古寺、古河、古池であれば、むかし寺川池があったんだなあイメージが湧きますが、古い郡ってなんですかねえ、比企郡も入間郡も埼玉郡もめちゃめちゃ古いんですけど古い郡とは言わないですよねえ
嵐山町にもあります
古里
新しい里ならわかりますけど古い里ってなんすかねえ。里は郷、郡を構成する単位、郷ですよねえ
これあのー、ジェノサイド、民族浄化に近いことが起きてはいないでしょうか
田村麻呂は中央から見て嵐山東松山に巣食う異民族、そして異教徒を地名もろとも消し去った。そして正史に残さず、口碑も口伝も許さず、記憶はいつしか悪竜に置き換えられ、古い地名を知るものもいなくなった
あーあいつならやりかねないわ
古凍を通るたびに背筋の凍るような何かがあったんじゃないか、考えちゃうのよねえ
おいねーちゃん、古凍ってのはな、昔キンキンに冷えた酒を出す店があったから古凍ってんだよ、なあ
ったくこねくり回しやがってばっかべえだな
松山?
うんだいたい松山こんな感じ
んだはおめえらこちょこちょ話してんじゃねえではあ
え、はあってなに?
はあなんて言ってねえではあ‼︎
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