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狭服山の六孫王【鴻巣市】

どもこんにちは、ゴケゴーちゃんです

早速ですが今回は、知らない人はまったく知らない。知っている人も

武士としての鍛錬が出来てなかった人ね

まったく良い印象のない、源頼朝を産んだ清和源氏の祖

源経基

について見ていきます! 経基は本当にダメな男だったのか、彼が埼玉に残した足跡から考えていきますね

鴻巣高校の裏に源経基が館を構えたと伝わる森があります。その森の奥に

六孫王経基城跡の碑

六孫王とは

清和天皇の6番目の孫の子

という意味なのですが

この時点で若干ダメな感じはしますよねwww

ただ当時はどエライ肩書だったのでしょう

経基はこの肩書きを引っ提げ、武蔵国の副知事、次官に当たる介として赴任してきました

介といっても守が来ていないっぽいので実質トップですね

この時一緒にやってきたのが興世王

将門記にはこうあります

二本の箸は魚の肉をついばむように民から血と肉を搾り取った

経基と興世王は魚をキレイに食べるように庶民から税をむしりとった、ということですね。ホントに将門記は上手いことを言うな思いますが、どうもこの興世王という男がとんでもなくゲスい奴だった。そんな気がしなくもないんですね

将門記をざっと見ていきます

興世王と経基はやって来るなり郡の倉庫や財産をチェックし始めた

足立郡郡司(さいたま市長みたいなものですね)武蔵武芝は「前例がない勝手なことすんな」反発した

興世王と経基はオラついた

その騒ぎを聞いた平将門、頼まれてもいないのに武芝の応援に駆けつけた

相手が今をトキメく平将門じゃかなわない。興世王と経基は比企郡狭服山に一先ず逃げた

比企郡狭服山がどこなのかは分かっておりません

将門が間に入り、仲直りの飲み会が府中で開かれることになった

しかし経基は応じず狭服山を下りなかった

興世王と武蔵武芝は府中で和解した

そして事件が起きる、のですが将門記だけを追っていくとモヤモヤが止まりませんので、一部杉本先生の解釈も交えて進めますね

和解。これはめでたいとそれぞれの兵にも酒が振舞われた

酒に酔った武芝の兵が「あの時はやりやがったな」偵察のために参加していた経基の兵にちょっかいを出し、それを止めようとする将門の兵、興世王の兵も入り交じり、せっかくの飲み会が大混乱に陥ってしまった

その騒ぎの報告を受けた経基「やはり罠だったか」速攻で京都へと走り、将門が興世王と武芝を味方に引き入れ謀反を企てております朝廷に報告した

これを将門記は逃げ帰ったと書き「未錬兵道(未だつわものの道に練れず)まだまだ武士としての鍛錬が出来ていなかった」とこき下ろしました

ちなみに将門記は武芝の兵が狭服山の経基の館を包囲したと書いています。狭服山の場所は、嵐山杉山城説、東松山物見山説、吉見町説、鴻巣伝経基館説ほか、いろいろあるのですが、府中で宴会、からの包囲。どこも距離的に無理がありますよね。狭服山は物語の都合上府中の近くでなければいけませんので

私は東山道武蔵路の通る、官営の施設もまだ稼働していたかもしれない、所沢、八国山付近にあっただろうと思います

しかし報告を受けた時の摂政 藤原忠平は

謀反? 返事くれ

将門に手紙を送る(元部下なんですよね)

将門は、常陸、下総、下野、上野、武蔵の国府より

将門にそんな気はないです、ただの酔っぱらいの喧嘩です

という文章を取り付け返信

誣告ぶっこいたなおまえ(事実を偽り告げること)

なんと経基は拘禁、まるで犯罪者のような扱いを受けることになってしまいました

府中のあの夜、自分の命が狙われたと感じたのは彼の早とちりでした

しかし経基は将門を推して坂東八国を独立国とするというゲスい計画の萌芽のようなものを聞いていたのかもしれません。だからこそ興世王と距離を置いた、一緒にいたら謀反人になってしまいますからね

結果的に罰せられはしましたが、彼の行動には武蔵国次官としての責務を果たす、一本筋が通ってるような気もします

そしてその半年後、将門が常陸国国府を襲撃!

経基は許され、先の報告を功績とみなし従五位下に昇進、ここからが貴族という扱いなので大出世です

平将門討伐軍の副将を命じられ再び関東へと赴きます

が!

到着する前に

しかし続いて藤原純友が反乱! 今度こそと博多湾へ向かいます、が!

武士としての鍛錬が出来ていなかったとは思いません。けれど

ちょっともってないという感じはありますよねwww

その後、経基は晴れて国司、ナンバーワンとして(ちょっと疑問点もあるのですが)武蔵国に凱旋します

ここで鴻巣市の地名の由来です、コウノトリは忘れてください

経基は国司、埼玉県知事のポジションですね、国司として武蔵国に帰ってきました。国司は当然、国府である府中に着任をするはずですが、経基の館は鴻巣にあります

千葉県市川市、国府と書いてコウノダイ

神奈川県小田原市、国府と書いてコウズ

国府はコウと読むんですね

コウ神社の由緒書きにこうありました

この付近に武蔵国の国府があったのではないかと推測されることから国府の洲(中心)が鴻巣になったと思われる

鴻巣に国府があった、鴻神社はやんわり言い切っていますね

日本書紀の時代にまで戻るのですが、笠原さんと笠原さんが争い笠原さんが勝ちその笠原さんが国造、後の武蔵国のトップになるという出来事がありました。いつかちゃんとやろうと思っているので雑に説明しました

この笠原さんは鴻巣市笠原民であると考えられているので、鴻巣に国府的なものがあった。国府洲と書いてコウノスいう地名が成立した。鴻巣市もこのスタンスでした。ただ鴻巣以外ではあまり聞かない話ですよね?

こんな感じならどうでしょうか。蘇我入鹿がブスッと殺られた乙巳の変、からの大化の改新により、全国は国と郡に分けられ、武蔵国の国府は府中に置かれました。一旦切ります

このとき武蔵国がどのように分けられたのか。和名抄(平安時代に作られた百科事典のようなものですね)和名抄から武蔵国には新設の高麗郡新羅郡を含め21の郡があったことが分かります

何を見てもだいたいこのようなことが書いてあるのですが、乙巳の変は645年ですから七世紀、和名抄は十世紀前半なんですね。この間の武蔵国、例えば幾つの群があったのか、どのような変換があったのか、などがほとんど分かっておりません

ほぼ空白の200年

移転をしたことがあるのだと思います、国府、 鴻巣に。根拠? 根拠はないです。200年長いんで一回くらい引越ししてても不思議じゃないかなーと思って

経基は箕田源氏の軍事力を必要とした、だから鴻巣を拠点にした。箕田源氏、2月にやります

狭服山のあの夜からどれだけの月日が流れたでしょうか。将門も興世王も、もうこの世にはおりません

けれど登場人物がもう一人いましたね。足立郡郡司、武蔵武芝です

彼の館は浦和の調神社のあたりにありました。そして彼は大宮氷川神社の祭祀に関わる仕事もしていました

が、理由はわからないのですが

彼はその役目を罷免されています

つきのみや様に鳥居がないのは年貢の搬入搬出の際の障害になるから、よく見聞きしますが、足立郡役所武蔵武芝の館、元々は神社ではなかったため鳥居がないと考える方が自然のような気がします

ただ、武蔵浦和駅の近くに白幡という場所がありますね

源氏といえば白い旗。南区白幡には経基が武芝を討つためにここに陣を置き、白い旗を立てたのでシラハタという言い伝えがあります

武芝が殺られたという記録はありませんので、白幡から圧をかけ脅し更迭しただけかもしれません

けれど、この伝説から想像するとどうしても

武芝さん、誉有りて謗なし(将門記)とても評判の良い方ですよ

関係ねえ、あいつは一発殴っとかねえと気が済まねえ

経基は根に持つタイプ、という印象にはなっちゃいますよねえ

やっぱダメですかね? 経基

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