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埼玉県に黒船来航 前編【川越市/行田市】

あ、あれはなんだ!

く、く、黒船だあああーーー!!

いちいちイラストにするまでもありませんね。どなた様も沖合に出現した黒船の姿が目に浮かんだことだろうと思います

幕末という時代はどの瞬間から始まるのか、と問われれば、きっと多くの方がこの場面、ペリーのやってきた嘉永6年を思い浮かべることでしょう

しかし、こちらをご覧ください

教科書にもありましたね。ペリーが浦賀に上陸、幕府にアメリカ大統領のお手紙を突きつける場面です

ペリーを迎え撃つ幕府の兵、まずは向かって右側

彦根藩と会津藩の皆さんですね。遠いところご苦労様です。しかしどちらも譜代の大藩ですので妥当な配置といえるのかもしれませんね

次、向かって左側

河越!!

そして海の上には

忍の船(行田)!!

彦根会津忍川越、だけではないんですけど、湾岸警備を担当した一部の藩にとってペリーの来日は、始まりではなくひとつの大きな節目でした。特に川越はこの時点で湾岸警備歴約半世紀の、もはや海の男たち

という訳で今回は、近代日本の扉を無理やりこじ開けたペリー艦隊に埼玉県民はどう対峙したのか、ペリーと激突するまでの約50年の間にどんな出来事があったのか、を見ていきます。長くなってしまいましたので前後編に分けました、お時間のある時にお付き合い下さいませっ

初めに、なぜ江戸幕府、いや日本という国の最大のピンチに埼玉県が向き合わなければならなかったのか

その理由は単純です

埼玉県は江戸の一番近くだったからwww

江戸には江戸内の地名を冠する大きな藩がありません。浅草藩とか六本木藩とか聞いたことないですよね?

なので、もし将軍様の居られる江戸に有事があった場合は、川越と忍、そして岩槻の三藩が江戸を守るということになっていました。この三藩をまとめて

武蔵三藩

と言います。特に川越は古くから三浦半島に領地を持っていたため、湾岸警備のリーダーとして矢面に立つことになりました

川越の最初の試練は1792年、ペリーの来日する61年も前、ロシアのラクスマンの時でした

次々に現れる外国船に幕府は海防の重要さを痛感、湾岸に領地を持ついくつかの藩に装備、外国船と戦うための戦力を報告するよう通達を出します。そしてこちらが川越からの報告です

時代は少し後になりますが彦根藩も

鉄砲はあるけれど玉と火薬がありません。玉をいただいても鉄砲がサビサビでとても使えそうにありません。とりあえず陣羽織と陣笠をお手当して下さい

似たような報告をしています

天下泰平の世が200年以上も続いちゃいましたからね。これは川越も彦根も責められないと思います。むしろこのしょぼさからわずか100年で世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を撃破するまでになるのですから、日本という国は変わるまでは時間がかかるけれど、変わってからは早いなあと感心してしまいます

この頃の幕府の外国船に対しての政策は

異国船無二念打ち払い令

無二念とは迷いなくという意味です。外国船であれば停止を求め、聞き入れられないときは迷うことなく攻撃する

この強硬策が発動したのが、1837年、アメリカ商船モリソン号の時でした

放てーーー!!

モリソン号事件は日本の攻撃は世界にまったく通用しない、ということを世に知らしめる大事件となりました。ちょっとだけ埼玉に戻りますね

埼玉県岡部町です

大河ドラマ青天を衝けの第一話、岡部藩の牢に繋がれた高島秋帆が登場しましたね

モルチールでオンテレーレです

実は高島はモリソン号事件がきっかけで釈放されています。海防のレベルアップを求められた江川太郎左衛門が、今こそ砲術家高島の知識技術、オンテレーレ、オランダ語で演習ですね、が必要だと幕府に訴え、それが聞き届けられました。モルチールは大砲の名称です

さいたま市緑区大間木の旧高野家離座敷は

砲撃など無茶だ。しかもエゲレス船と勘違いしたそうではないか情けない

幕府の対応を批判したことで追われる身となった高野長英が潜伏したところですね

ちなみに日本の攻撃はモリソン号のクルーに

あれ、オレたち歓迎されてる?

大きな勘違いされていますwww

その5年後の1842年、清がイギリスに戦争で負けたというニュースがもたらされます。アヘン戦争です

幕府は震撼しました

大国である清が負けたというのも驚きですが、それ以上に清が開港したということは、清の隣の日本などもはやイギリスの庭先のようなもの。超大国のイギリスが頻繁にやってくることを意味します

幕府は打ち払い令を薪水給与令、外国船が来たら石炭と水、希望があれば食料なども差し出す代わりに穏便にお引き取り頂く作戦に変更、川越藩には浦賀を除く三浦半島の全域を、房総半島の西側には新たに忍藩を配置し、さらに強固な江戸防衛システムの完成を急ぎました

また、清がイギリスに負けたというニュースは日本の若者にも大きなショックを与えました。例えば吉田松陰は

こんなことが日本で起きたら大変だ

と考えましたし、勝麟太郎、のちの勝海舟ですね。彼は

剣の時代は終わりだ

本気でオランダ語を学び始めます。アヘン戦争の終結した1842年は、すでに転がり始めていたこの国の大きな歯車が、ゴロリと音を立て加速をし始めた年のような気がします

川越藩と浦賀奉行の陣屋跡に触れておきますね。三浦半島における川越藩の本拠は大津にありました。二万坪の敷地に多い時で1500人、始まりは三人でしたので随分増えましたね、1500人の川越藩士が家族帯同で詰めていたそうです。大津中学校の校門近くに陣屋の小さな石橋のみが保存されています

浦賀の奉行所は今はもう何も残っていないのですが、道がちょっといいなと思いました。陣屋の門に向かって少しだけオフセット、反対側もクランクしていますね。攻めにくくするための工夫です

そして奉行所から海岸まで、与力たちの住居がありました。中島三郎助も、後編に登場する香山さんも確実にこの辻に立っている、と考えるとグッとくるものがありますね

岩槻藩

岩槻藩は狙ってやったのか運がよかったのかは分かりませんが、房総半島の東側。鴨川シーワールドのあたりから一宮海岸までの警備を担当していました

多くの黒船は江戸を目指しますから鴨川沖はあまり通らないんですね。なので岩槻藩は他の藩と比べると借金も極端に少なく、政治に深入りすることもなく、1867年、王政復古の大号令が出ると、武蔵三藩の中ではいち早く朝廷に帰順し、平穏に明治維新を迎えることが出来ました

清の船が来るなど何もなかった訳ではありませんが、川越と忍がこの後どうなっていくのかを考えると、岩槻は明治になり県庁と駅という大きなチョンボを2回やらかしますが、幕末は上手く立ち回ったなあと感じます

そして1846年閏5月、川越忍浦賀奉行に強大な敵が現れます

ビッドル来日

アメリカ東インド艦隊司令長官であるビッドルの目的は、日本に開港の意思が有るかどうかの確認でした

しかしそんなことは現場の川越、忍、浦賀奉行には全く関係がありませんでした

現場のやるべきことはただ一つ

ビッドル艦隊の江戸湾入港を阻止!!

ビッドル艦隊との闘いは、川越、忍、両藩主、お殿様ですね、両藩主とも、自ら現場へ赴き指揮を執る総力戦となりました

ビッドル艦隊迎撃の際の細かな数字は拾えなかったのですが、前年にやってきたメルカトル号の時は川越だけでも

大津陣屋から420人

三崎陣屋から151人

船が119隻出撃しています

これに浦賀奉行軍と房総からの忍船団が加わりますし、ビッドル艦隊は艦隊といってもたったの2隻ですから、戦力的には決して劣らないような気がしないでもないのですが、結論から言うと

手も足も出ませんでした

配置を確認しておきましょう

松平大和守の文字が見えますね。大和守とは当時の川越藩主松平斉典(なりつね)のことです。川越観光の目玉、川越城本丸御殿を作ったのはこの人なので「なりつねなりつねなりつね」この人の名前は覚えておいて欲しいなと思います

あ、これはみんな大砲です

手前に忍藩主、松平下総守、奥に幕府の直轄部隊、浦賀奉行の文字がありますね。ああ、これも大砲です…

下総守こと松平忠国(ただくに)は若くして忍藩の藩主となり、タイミング悪く湾岸警備の任を命じられました

やはり二十歳で藩主となった川越藩の斉典には、この時45歳です、似た境遇の忠国に心を寄せる、もしかしたら同情に近いものがあったのかもしれません。幕藩体制下では大名同士が軍事的な協力をし合うなどめったに無いのですが、忍は湾岸警備の大ベテランである川越にアドバイスを求め、川越はその要請に真摯に対応しました

それほどの緊急事態でもあった、ということなのでしょうが

薩摩だ長州だ言ってる場合じゃないがぜよ

坂本龍馬が吠える20年も前に

川越だ忍だ言ってる場合じゃねえだんべ?

同じ意味のセリフを呟いた埼玉県民がいたと考えると、薩長同盟など革新的でも何でもないですよねwww 埼玉を真似しただけですからねwww

冗談はさておき、川越忍浦賀奉行軍は総力でビッドル艦隊を取り囲みました

が!!!

取り囲みプレッシャーを与える以外に何が出来るというのでしょうか。小さな木の船に乗り込んだ日本側の武器と言えば、旧式の鉄砲と

槍ぐらいのものですよ!! ヤリ!!

日本国内は200年以上もの間、戦争らしい戦争がありませんでした。故に軍事に税金を使う必要がありませんでしたので、その分、治水や福祉にお金を回せた、良い側面はもちろんあるのですが、いざ外敵が来てみれば

槍しかない!!!

ビッドルの目的は開港ではなく通商の意思が有るか否かの確認でしたので、プラカード作戦と、果敢にも数名で乗り込んだ川越藩士の活躍のおかげ(?)で戦闘に及ぶことなくお引き取り頂けることになりましたが、日本の運命などビッドルの胸三寸。ひとつ対応を間違えれば浦賀の海が血に染まった、と言ってもまったく過言ではなかったでしょう

幕府は外国船を浦賀水道で阻止するのは難しいことに気付き、警備のラインを湾のずっと奥の品川沖に後退させ、何がなんでも将軍様の居られる江戸だけは守る。方針の変更をせざるを得なくなります

同時に譜代の大藩である彦根と会津にも江戸湾警備を担当させ、それぞれ神奈川県側には彦根藩、千葉県側には会津藩、そして浦賀には、あの長州藩を配置します

ペリー来航まで あと7年、後編へ続く

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