文庫_君と夏が_鉄塔の上_書影

【まとめ読み】『君と夏が、鉄塔の上』【1~17】

第一章 鉄塔94


 帆月が屋上から飛んだ。僕はそれを教室から見ていた。

 中学生活の最後の夏休みに入る、少し前のこと。傾き始めたオレンジ色の陽光が机や椅子の影を引き伸ばしている教室内で、部活に出ようか、それとも帰ろうかとぼんやりしていると、窓の外、校門から校舎へと続く道あたりに人だかりが見えた。たくさんの生徒が一角に集まって、一斉に空を見上げている。
 いったい何だろう、と彼らの視線の先に目を動かしてみると、向かいの校舎の屋上に人影があった。こちらの校舎の方が高いので、僕がいる教室と向こうの校舎の屋上とはちょうど同じ高さだ。だから、屋上の様子がよく見えた。
 一人の女子生徒が屋上にいた。時折吹きつける風に、黒くて長い髪がなびいている。どういうわけか、彼女の側には自転車が置かれていた。
 窓際に駆け寄って目を凝らすと、その女子生徒が帆月蒼唯であることが分かった。セーラー服のスカートが煽られ、ほっそりとした足がちらちらと覗いているのも気にせず、彼女は屋上の端を沿うように歩き、時折階下を見下ろしていた。
 向かいの校舎の屋上は人が立ち入ることを想定されていないため、フェンスが張られていない。僕は帆月の様々な噂をいくつも耳にしていたから、また何か変なことをやリ始めた、と思いはしたけれど、ではいったい何をするつもりなのか、まったく見当が付かなかった。
 帆月は薄い木の板を屋上の端の段差に置くと、強度を確かめるようにぐっと足で踏んだ。そして、満足したように頷くと、次は自転車の方へ歩いて行き、その場にしゃがみ込んで何やら作業をし始めた。時折ノートを覗きながら、大きくて薄っぺらい板状の物を、サドル後方に突き立った鉄パイプの先端に取り付けていく。自転車よりも大きいその白い板は翼のようで、自転車の前籠の先には、大きなオレンジ色のプロペラが取り付けられていた。
 ─まさか……あの自転車で飛ぶつもりなのか?
 彼女のいる場所は三階建ての校舎の屋上だ。そこから飛ぼうだなんて、とても正気とは思えない。
 いくらなんでもさすがに、という思いと、それでも帆月ならやるかも知れない、という予感が一瞬で混ざり合い、僕はこれから起こる事態に唾を飲み込みながら、じっと彼女の動向を見つめた。
 そんな僕の思いをよそに、帆月はてきぱきと自転車に部品を取り付けていく。階下の生徒たちは、帆月の姿が見えないからか、互いの顔を見て首を傾げながら、どうなるのだろうと空を見上げている。
 すべて組み立て終わったのか、帆月は工具をまとめると、自転車のハンドルを握り、屋上の端─先ほど木の板を置いた場所─をじっと見つめた。首にぶら下げていた、飛行機乗りが使いそうなゴーグルを掛け、羽の付いた自転車にまたがった帆月は、まるで背中から翼が生えているみたいだった。
 彼女が少し体を揺らすと、スタンドが上がり自転車が進み始めた。そのスピードに合わせるように、プロペラがゆっくりと回り出す。
 帆月は立ち上がるように、懸命にペダルを踏んだ。初めは右へ左へとふら付いていた自転車は、その内に一気に加速を得て、木の板が置かれた屋上の一角に向けて勢いよく進んでいく。
「え⁉ ちょっと!」
 僕は思わず声を出してしまった。
 嘘だろ? 本気なのか? そんな言葉が頭の中を駆け巡る。
 やがて、帆月を乗せた自転車はその加速を失わぬまま、屋上から空中へと飛び出した。
「あ!」
 そう叫んだのは僕だったか、それとも階下にいた生徒たちか。一斉にどよめきが起こり、どこかの女子生徒が悲鳴を上げた。
 自転車がふわりと浮力を得た─と思ったのもつかの間、はたして帆月を乗せた自転車は、校舎下のイチョウの木へと突き刺さるように落ちていった。
 大きな音を立てて自転車がイチョウの枝葉の間を滑り落ち、まずは帆月が、その次に自転車が地面へと落下した。幸い、自転車が彼女の体に落ちることはなく、木の幹のそばでクシャクシャに潰れていた。白く大きな羽はバラバラになっていて、イチョウの木の枝の至る所に引っかかっていた。
 一部始終を見ていた生徒たちや、騒ぎを聞きつけた教師たちが集まり、大事な壺でも取り扱うようにして帆月は運ばれていった。これは後で聞いた話だけれど、落下の衝撃で帆月は右腕の骨にヒビが入り、全身数箇所を裂傷、打撲していたそうだ。そして彼女はしきりに「計算を間違えた」と悔しそうに呟いていたらしい。
 帆月蒼唯は、おかしな女だった。中学三年になって初めて同じクラスになったから、昔のことはあまり知らない。前から活発な印象はあったけれど、もっとマトモだったと思う。それがどうしたことか、今では歩く爆弾みたいになってしまった。だから、率先して彼女に近付こうとする生徒もほとんどいない。
 帆月が運ばれた後も、僕は呆然と、落っこちた自転車と壊れた羽を眺めていた。



 蝉の鳴き声もいい加減うんざりしてきた八月の初め。夏休み真っただ中。
 今日は登校日と定められているので、僕は狂った生活時間を無理やり捻じ曲げて、何とか学校に登校した。久し振りに浴びた朝の日の光はとても眩しく、夜型生活を送って弱っている僕の肌を容赦なく焼いていく。僕は一旦眼鏡をずらし、目頭を指で摘んで何度か瞬きをすることで、目の調子を整えた。
 けれど、いざ登校してみると、出席している生徒の数はまばらだった。
「黒くなったなあ、お前」
「このまえ遊園地行ったって本当?」
「毎日部活だもん、そりゃ焼けるよ」
「家族でね。旅行みたいなものだよ」
 色々とクラスメイトが話していた内容を聞く分には、田舎に帰省するだとか、旅行の予定がある生徒だとかは休んでもいいらしい。何だよそれ、先に言ってくれよ、と思いもしたが、よく考えれば僕には帰れる田舎もないし、かと言って旅行に行く予定もなく、ましてやうちの家族がズル休みを許すはずもないので、どうやったって僕は登校日にきちんと登校する以外、選択肢がないのだった。
 ともあれ、休んでいるクラスメイトはどこかでのんびりと羽を伸ばしている、なんて具合だから、全体的にだらけた雰囲気が漂っていたけれど、いつもは空いているはずの僕の前の席が埋まると、途端にクラス内に緊張が走った。
「おい、あれ……」
「うわー、マジかよ」
 僕の前の席に座っている比奈山優という男子生徒は、中学二年の中頃くらいから不登校で、今学期も数えるほどしか学校に来ていなかった。
 二学期からちゃんと登校するつもりなのか、それとも、ただ出席日数を稼ぎにきたのかは分からないけれど、前の席が埋まると、何か起こるのではないかと緊張してしまう。チビで痩せっぽちの僕が言えた義理ではないけれど、ほっそりとした比奈山の背中を見ながら、僕は少し椅子を後ろへ下げた。
 結局何が起こるでもなく担任の朝の挨拶が終わり、恒例の校舎の掃除。それぞれ出席番号順に掃除場所が割り振られ、僕は学校の端にある柔道場の裏側担当に決まった。教師から竹箒を渡され、足取り重く掃除場所へと向かう。女子生徒たちが仲良さそうに雑談をしながら、ついでとばかりに掃除をしている横で、僕は黙々と落ちた葉っぱなどを集めた。
 掃除が終われば、再びぐうたらな夏休みが僕を待っている。悠長に誰かと話している暇などないのだ。話す相手もほとんどいないけれど。
 竹箒で地面を掃きながら、そろそろ塵取りでゴミを集めようかと考えていると、視界の端に、台形をした緑色の塵取りが、ごん、と置かれた。何て気の利いたタイミングだろう、と顔を上げると、それを持ってきたのはあの帆月だった。
「伊達くんってさ、鉄塔に詳しいんだよね?」
 帆月は塵取りを構えながら、そう言った。
「え? どうして」
 声が裏返る。帆月との会話は、クラスの不良に話し掛けられるよりも緊張する。
「ほら、こないだの読書感想文。何か鉄塔の本を読んだとかで、先生に褒められてたじゃない」
「ああ、うん。まあ……」
 確かに、六月の課題として、担任から読書感想文の課題が出た。僕はそこで本を読んだ感想と、自分の実体験を混ぜ合わせた感想文を書き、本当に久し振りに先生に評価されたのだ。
 帆月の口から『鉄塔』という単語が出たことに驚いたけれど、それよりも、彼女がここにいることが見つかって、それで先生たちに怒られやしないかと、僕はそっちの方が心配で、あたりを見回した。帆月の担当する掃除場所は、確か校舎内のはずだった。
「あのさ」
 彼女は構わず話を続ける。
「秋ヶ瀬公園の所に鉄塔あるでしょ?」
 秋ヶ瀬公園とは、さいたま市を流れる荒川左岸に広がる公園のことだ。この中学校からもそう遠くはない。
「あるけど……秋ヶ瀬公園って言っても、結構広いよ」
「マンションの横にある鉄塔なんだけど」
「マンション?」
「ええと、ほら、あの貯水池の近く。何て言ったっけ」
「彩湖?」
「そう、それ」
「それだと、京北線と笹目線があるけど」
「何それ」
「鉄塔の路線の名前」
「へー。名前が付いてるんだ」帆月は感心したように何度か頷いた。
 送電鉄塔にはそれぞれ、どの区間に電線を渡しているかを識別するための名称がつけられている。鉄塔の下部を見れば、ちゃんと名称を記したプレートが添えられているはずなので、驚くようなことじゃない。
「彩湖の真ん中を通るなら笹目線。北側を通ってるのは京北線」
「うーん、けいほくせん、かな」
「じゃあ、京北線93号鉄塔かな」
「ああ、でも、私が言ってるのは土手より外側にある鉄塔なんだけど」
「マンションの隣? なら、94号鉄塔だね。小さな公園の横にあるやつ」
「そうそう! よく知ってるね」
 帆月に褒められて、僕は少し照れてしまった。
 女の子に褒められるなんて滅多にあることじゃない。そもそも女子生徒とはほとんど会話をしないし、僕は成績も悪く運動も苦手だから、母親にさえあまり褒められないのだ。
「あの鉄塔って、何か特別だったりする?」
「特別?」
「曰く付きの鉄塔だとか……おかしい所があるとか」
 帆月にそう言われ、僕は94号鉄塔を思い浮かべた。さすがに細かな部分まで正確に思い出せるわけではないけれど、とくに変な鉄塔ではなかったと思う。
「等辺山形鋼の料理長型女鉄塔だったと思うよ。154キロボルトの二回線。このあたりじゃとくに珍しい鉄塔でもないと思うけど」
「へぇ」帆月はぽかんと口を開け、目を丸く見開いた。よく知っているね、という顔だろう。
 種を明かせば、先月の読書感想文で、その鉄塔で昔遊んでいたことを書いたから、僕の中の記憶が更新されていたというだけの話なのだけれど、そこはあえて言う必要もないだろう。帆月が京北線94号鉄塔の名を出してくるなんて、すごい偶然だった。
「伊達くんって、ちょっと気持ち悪いね」
「え?」
「よく分からないけど、普通の鉄塔ってこと?」
「あ、そうだね」
「……そっか」
 帆月は少し残念そうに肩を落とした。そして、塵取りで地面を軽く叩き、「ほら」と促す。僕は言われるがまま、集めたゴミを塵取りに入れた。竹箒でゴミを塵取りへと運び、集め損ねたゴミのために塵取りを後ろにずらす─という動きを何度か繰り返し、だいたい集め終わると、帆月は何も言わずに柔道場から離れていった。

 掃除の時間が終わり、再び教室に戻る。無理やりに生活時間を変えたのと、掃除で体を動かしたということもあって、若干の眠気に襲われていた。僕は腕を枕代わりにして机に突っ伏し、目を閉じた。うつ伏せのまま、しかし眠りにつくでもなく、教室の方々で飛び交っている話し声を何となく聞いていると「帆月」と彼女を呼ぶ男子生徒の声が聞こえ、僕は寝たままそちらの方向へ耳を澄ませた。
「借りてた望遠鏡、いつ返せばいい?」
「ああ、あれ。別にいつでも。もう使わないから」
「え? なんで」
「天文部、七月で辞めたんだ。だからいつでも。部で使っててもいいよ。名前書いちゃってるけど、気にしないで」
 帆月があっさりと答える。
 彼女はころころと部活を変えることで有名だった。中学三年の一学期が始まってから今までの間で、すでに十種類ほどの部活に入っては、すぐに退部しているらしい。
「あ、そう……」男子生徒が気落ちしたような声を発する。確か、彼は昔から帆月のことが好きだったはずだ。いつだったか、帆月のいない教室内で、そんな彼を茶化すようなやり取りがあった。昔の帆月は、奇抜な行動を取るなんてことはなくて、快活な女子という感じだったから、その時の印象をひきずっている生徒は、こうして頑張って彼女に近付こうとして、そして散っていく。
「あ、本貸してたよね。あれはもう読んだ?」
「本? 本って、何だっけ?」
「星座の本。あの、オリオンが表紙の……」
「あ、借りてたね。うん。返す返す。大丈夫。忘れてないよ」
 帆月は念を押すように「忘れてない」と繰り返す。おそらく忘れていたのだろう。
 二人の会話はそこで終了したようなので、僕は再び他の方向へアンテナを伸ばす。夏休みの話、塾の話、付き合っただの別れただの、いつもと変わらない会話が教室中を回っている。
 そして、誰かが僕の席のすぐ側を通り、僕の腕を風が触った。
「あのさ」
 すぐ近くで声がした。その声が帆月のものだったので、僕は顔を上げようとしたが、前の席から「ん」と短い返事。彼女が自分に話しかけているわけではないのだと分かり、僕は上がろうとする頭を首の筋肉で何とか押さえつけた。
「比奈山くんって、お化けが見えるんだよね」
 帆月の言葉に、比奈山が小さく溜息をつく。何だか物音一つ立てることが憚られ、僕はじっと寝たふりを続ける。
「まあな」と比奈山が冷たく答えた。
 比奈山はお化けが見えるらしいのだ。

 彼が不登校になったのは、二年の梅雨頃に起こった幽霊騒ぎが原因だった。
「○△×△!」
 雨がゆっくりと降り続け、教室の天井あたりに眠気の空気がどんよりと溜まっているような、給食後の何とも言えない微睡みの中で、比奈山が急に悲鳴を上げたのだ。あまりにも尋常じゃないその叫喚に、半ば眠っていたクラスの皆が驚き、比奈山の奇行に怯えた。
 比奈山は目を見開いたまま、教室の天井あたりを見つめ、まるで何かを追い払うように激しく手を動かしていた。比奈山から吐き出される言葉は不明瞭で、懇願のようでもあり、怒りに満ちているようでもあった。机を撥ね除け、椅子を蹴飛ばし、比奈山は教室内を逃げるように駆け回った。やがて比奈山は僕の机に盛大にぶつかる。机の上にあった筆箱が床に落ち、鉛筆や消しゴムが散乱する。
 その時、一瞬こちらを見た比奈山と目が合った。比奈山の目、その瞳孔はビー玉のように大きく、僕を見ているようでもあり、僕の遥か後ろを見ているようでもあり、とても怖かったはずなのに、彼から視線をそらすことが出来なかった。
 その時授業をしていた国語の先生と、騒ぎを聞きつけてやって来た隣のクラスの先生に押さえつけられるようにして抱えられ、彼は保健室へと運ばれていった。
 その騒ぎ以降、比奈山はほとんど学校に来ていない。担任の話では、比奈山は色々と問題を抱えていて疲れている、と説明があったけれど、生徒は誰も信じなかった。あいつは呪われているんだ、いや、おかしな薬をやっているか、脳の病気なんだ─そんな噂が飛び交っていた。仲良さそうにしていた当時のクラスメイトも、今では比奈山に近寄ろうともしない。それどころか、珍しく比奈山が登校してきた次の日には「どうして学校に来るんだろう」なんてことを言ったりする。比奈山とよく遊んでいた連中はクラスでも活発な男子生徒ばかりだったのだけれど、僕はそれを聞くたびに虚しい気持ちになった。比奈山も帆月と同じで、周りからすれば爆弾のようなものなのだ。

「じゃあ、妖怪も見えるの?」
 比奈山の態度に臆することなく、帆月が訊ねる。妖怪という突拍子もない響きに、僕も、おそらく比奈山も驚いた。
「妖怪?」
「うん、妖怪。見える?」
「いや……妖怪は、まだ見たことないな」
 帆月があまりに真剣な声だからか、比奈山は気圧されたように答える。
「そっか。でも、幽霊については詳しいってことだよね?」
「一応。いや、どうだろう」
「あのさ、鉄塔にまつわる幽霊の話って知らない? 妖怪でもいいんだけど」
 彼女の口から再び「鉄塔」という単語が出てきた。鉄塔と幽霊、鉄塔と妖怪。どちらにしてもおかしな組み合わせに聞こえる。
「何だそれ」
 比奈山は鼻で笑った。
「けい……ひんせん94号鉄塔っていう鉄塔が、秋ヶ瀬のマンション脇に立ってるのよ。小学校の近くの」
 違う。京北線だ、と僕はうつ伏せのまま心の中で訂正した。
「その鉄塔にね─」
 そこで、ガラガラと教室のドアが開き、担任の村木が入ってきた。僕が体を起こすと、すでに帆月は自分の席に戻っていて、比奈山も前を向いている。村木が「うるさいな」と言いながら、わんわんと鳴く蝉の声を窓の外へピシャリと閉め出し、それからホームルームが始まった。
「今までの夏休みの間、どこか旅行に行ったやつはいるか?」
 村木が言うと、教室の方々からどこに行った、どこに行く、という声が上がる。僕は「ずっと家ですよ」と、誰に言うでもなくこっそり呟いてみた。
「明日からもまた夏休みだが、ハメを外さないように」村木が釘を刺す。
 その後、夏休みに行われたらしいサッカーの大会でうちの中学が準決勝まで進んだことを褒め、クラブ活動に勤しんだクラスメイトに拍手を送る。
 ホームルームはそんな感じで、諸連絡や諸注意の話ばかりだった。そしてその間中、前に座っている比奈山も、ちらちらと帆月のことを気にしているようだった。

 ホームルームが終わり、皆が夏休みへと戻って行き静かになった教室で、僕は数人の部活仲間たちと会議をしている。窓の外、校舎のすぐ側に生えた木には蝉が止まっているようで、じりじりと擦るような鳴き声が教室に響いていた。
「課題の進捗状況を発表してもらう」
 大きな体を揺らしながら渋面を作ったのは、地理歴史部部長の木島だ。先ほど冷房は運転を止めてしまい、木島は額から多量の汗を流している。
 地理歴史部は僕ら三年生が五人、二年生が二人、一年生が一人の計八人という弱小文化部だ。代を追うごとに先細りになっていって、僕らの代が抜けてしまえば、地理歴史部の未来はほとんどないだろう。もちろん、部室なんてものが与えられるはずもなく、どうにか担任の許可を得て、部員達が僕の教室に集まって活動しているという、実に虚ろな部活だ。顧問はうちのクラスの担任である村木だが、村木はサッカー部との掛け持ちなので、こちらに顔を出すことはほとんどない。
 そんな村木が、夏休みに入る前に「後輩たちに何か遺せるものを作れ」と言い出した。そして、教師の命令に逆らう気概も見せず、部長木島は「はい、喜んで」と安請け合いをした。その結果、僕ら地理歴史部の面々は、夏休みの宿題よろしく課題に取り組まねばならなかったのである。
 僕らが取り組む課題は、学校周辺の精巧な地図作りだった。インターネット地図を超える最新版の地図を作成する、と提案者である木島は鼻息を荒くしていた。木島がやる気になってしまったのなら、僕らに異論を挟む余地はない。部員たちはほとんどが受動的で、地理歴史部は部長である木島一人の行動力で持っているようなものだからだ。
 しかし、実は木島にも算段があったようで、彼は前々から一人で周辺地図を作製していたらしい。それを今回の課題に持ち回し、さらに一人では大変な地図作製の労働力を、部員によって補ってしまおうという魂胆だったようだ。
 ともあれ課題は決定され、それぞれが分担して地図作製に携わることになった。工事現場担当、廃墟担当、路地担当とそれぞれ得意な分野を割り当てられる。僕は当然鉄塔担当だ。登校日に一度、それぞれ担当場所の進捗状況を持ち寄り、地図に記入することを約束していたのである。
 僕は夏休みが始まる前から作業に取り掛かり、あっと言う間に終わらせてしまった。それらを大きく広げられた地図に記入していく。
 地図には学校を中心に、左手に荒川、右手には駅と線路が記されており、最近完成したビルやマンション、埋め立てられてなくなった川の現在の状況、廃墟、廃ビルの状態、あるいは駅前の都市開発の進捗状況までが事細かに書き込まれている。一般の地図と違ってずいぶんと偏った情報ばかり載っており、はたしてこれでいいのかという気分になる。
「これを企業に持っていったら、結構な額で買い取ってくれるんじゃないか」
 予想以上に捗った地図を眺めながら、木島は鼻を膨らませた。それはあるかも、いくらになるだろうと部員たちが笑う。
「駅前なんかはまた新しいビル建て始めたぜ。親父に聞いた話じゃ、そもそもちょっと前はあそこに駅なんてなかったらしい」
 木島の説明を受け、うわ、不便だなと声が上がる。その反応に満足したのか、木島は大きく頷いて見せた。
「街は成長するんだ。生きている。そして、細かな所で死んでいる。だからこそ、こうして今現在の地図を残すことに意義があるわけだな」
 木島はダラダラと流れる汗を制服の肩口で拭い、偉そうに言った。
「今あるビルや工場だって、いつかなくなって、また別の建物がつくられる。そこが前何だったのか、どんな建物だったか、誰も覚えてない。忘れられた時に、その建物は死ぬ。救えるのは、街を記憶する俺達だけだ」
 木島の演説が終わり、部員達は皆、神妙な面持ちで頷いた。
 忘れられた時、街は死ぬ─これは木島が考えた言葉で、地理歴史部のテーマとなっている。真理だろう、と木島が偉そうな顔をするのであまり褒めたくはないのだが、先日の読書感想文でこのテーマをこっそり引用したら、担任に褒められてしまった。
「それはいいんだけど……この駅前の工事現場なんだけどさ、今何階まで出来上がっているとか、クレーンの台数とか、そんなことまで書く必要あるのかな」
 僕は駅前の空き地にびっしりと書き込まれた文字を指差す。
「なんだと」
「いくらなんでも文字情報が多すぎると思うんだけど」
「いいか、伊達」と木島は太い指で地図をトンと叩いた。「いずれこのビルは完成する。けど、そうなってしまったら、人々にはこのビルが、いつ着工していつ竣工したかしか分からない。だけどな、この地図があれば、地図の完成した日付から、工事の進み具合までが浮かび上がるんだよ。例えばこの地図を一年─いや、一ヶ月毎に発行してみろ。少しずつ変化していく街の流れを追うことが出来る素晴らしい作品になるじゃないか」
 木島はグッと拳を握り締めながら、大仰に語る。
「写真の方が早いんじゃ」という僕の言葉を「シャラップ」と遮ったが、しかしすぐに木島は思案顔になり、
「写真か……でも、そうなると地図自体を大きくする必要があるし……折り曲げて保管出来なくなるしなあ」などとぶつぶつ言い出した。
「おい、あれ」
 その時、部員の一人が窓の外を指差した。
「屋上、あれ帆月じゃね?」
「屋上」「帆月」という単語を聞いて、僕はすぐに窓の外へと視線を向ける。向かいの屋上には数人の教師と、彼らに囲まれた一人の女子生徒─それはやはり帆月で、彼女は取り囲む教師たちに対して声を張り上げていた。何と言っているかは分からないけれど、むしろ帆月が教師たちに説教をしているようにも見えた。
 帆月の脇には、これもやはりと言うべきか、大きな羽の付いた自転車が置かれていた。前の自転車と比べると、左右の羽が斜め上に向いていて、若干形が違うような気がする。
「アイツ、また飛ぼうとしてたのかな」
「俺はああいうのとは付き合えないわ」
「アレがなきゃ可愛いんだけど」
 部員たちが口々に呟く。僕らは自分のことを棚に上げて、かなり上のほうから物を言うのが得意だった。
 僕は、ただ黙って屋上の様子を眺めていた。多くの教師に諌められ、帆月はしぶしぶといった感じで自転車の羽をたたむと、屋上から姿を消した。
 教室の中央で木島が地図を指差しながら、部員に自分の手柄を報告している。僕はその輪には加わらず、帆月が飛ぶつもりだった青空と、ぷかぷかと浮かぶ白い雲をぼんやりと眺めていた。
 明日からまた、何の予定もない夏休みだ。



 また夜更かしをしたので、昼過ぎに目が覚めた。窓の外の電信柱に止まっているのか、蝉の声がいつにも増して五月蝿い。「八月蝉」でうるさいと読んでもいいんじゃないか。蝿はどちらかと言えば煩わしい方だし─などと考えながら一階の台所に下りてみると、家には誰の気配もなかった。父も母も働きに出ているのだろう。ぼんやりとテレビを見ながら、用意されていたおにぎりを頬張る。
 二つ食べ終えたところで、ふと、今日くらいは外へ出かけようと思い立った。
 太陽に照り付けられたせいで、自転車のサドルはとんでもない熱さになっていた。型の古いデジタルカメラと、麦茶の入った水筒をリュックに詰め込み、自転車の前籠へ放り込む。尻を焼かないように、立ったままの姿勢で自転車を漕ぎ出すと、ほんの少し漕いだだけで額から汗が噴き出した。その半分は目に入り、あとの半分は僕の平坦な鼻や頬を流れていく。
 しばらく漕ぐと、正面に京北線の流れが見えてくる。コンビニの隣に立っている99号鉄塔にぶつかったら、左へ折れて、98号鉄塔方向へと進む。99号も98号鉄塔も、送電線をV字に吊っていて、このあたりの京北線は大抵この形をしていた。
 高速道路を潜り、背の低い住宅地の間に立つ95号鉄塔を横目に進むと、目当ての94号鉄塔が眼前に現れた。鉄塔の手前には大きく切り取られた田圃が広がり、鉄塔の向こう側にはこげ茶色のマンションが建っていた。送電線はそのマンションの屋上を越え、荒川土手にある小さな93号鉄塔へ向かっているはずだ。
 悠然と聳える鉄塔を眺めながら自転車を漕いでいたので、危うく転びそうになった。
 鉄塔は、見れば見るほど不可思議な形をしていて、どれもこれも想像以上に背が高い。そしてそこには、高圧電流が絶えず流れ続けていて、静かに唸り声を上げている。だから僕はそんな鉄塔の側に寄ると、感動と同時に畏怖の念を覚えてしまうのだ。それが平衡感覚を失わせる大きな要因となっているのだろう。
 一度鉄塔から目を離し、しばらくは自転車を漕ぐことに専念する。僕の自転車のサドルはぺったんこなので、ちょっとした段差を乗り越えるたびに尾骨が悲鳴を上げた。
 道はこげ茶色のマンションにぶつかり、T字に分岐している。僕はそこまで一気に自転車を漕いだ。T字の左側の角には小さな公園があり、パステルカラーに塗り分けられた滑り台やブランコ、回転する丸いジャングルジムが置かれ、砂場には子供の忘れ物であろう小さなスコップが半分ほど埋もれたまま突き刺さっていた。公園の一番奥にあるブランコの後ろに、背の高いフェンスに囲われた94号鉄塔の脚部が見える。
 公園には木々が植わっているので、見上げても鉄塔の全容が窺えない。しかし、木の枝が日を遮っているため幾分涼しげだった。
 公園の入り口に自転車を止めて、リュックからデジタルカメラを取り出し、鉄塔全体が見えるように公園から少し離れてみる。そうしてカメラを構え、何枚か撮影した。鉄塔を右に据えてみたり、カメラを斜めに構えてみたり。我ながらいいアングルだと自分の腕に酔いしれる。
 しかし、鉄塔に蝉が一匹止まっている以外は、ごく普通の料理長型女鉄塔で、別段不思議な点は見受けられない。料理長型と言うのは、その形がまるでコック帽を被っているように見えるからで、女鉄塔と言うのは、絶縁体である碍子連─白くて小さな円盤がいくつも連なったもの─が前後に張られている鉄塔のことだ。反対に、碍子連が縦にぶら下がっている鉄塔は男鉄塔と呼ばれている。僕は帆月に伝えた94号鉄塔の精確さに満足すると同時に、ではいったい、帆月は何が気になったのだろうと考えた。
 鉄塔と幽霊、あるいは鉄塔と妖怪。帆月はそう言っていたが、そんな話は聞いたことがないし、やはりどうにも不釣合いに思えてしまう。
 しばらく眺めていると、陽の暑さのせいか、長時間首を上向きにしていたからか、くらくらしてきたので、木陰で一休みするために僕は公園内へ入った。
 園内にはいくつか木製のベンチが置かれている。入り口からでは木の陰になっていて見えなかったけれど、ブランコの右横にもベンチがあり、公園と鉄塔を隔てる役割も兼ねているフェンスに沿うように置かれていた。
 そして、そのベンチには、同じクラスの比奈山が座っていた。僕は驚き、その場に立ち止まった。誰もいないと思っていた公園、さらに、私的な時間に見知った顔に出くわした気まずさとが相まって、小枝一本踏む音を立てることさえためらわれる。
 比奈山は背筋を反り、顎を空に向けるようにして座っている。ただ空を見上げるには、少し窮屈そうな姿勢だ。どうしたものかと立ち尽くしていると、やがて、顔を下ろした比奈山と目が合った。
 切れ長の鋭い目に射抜かれると、思わず竦んでしまう。いつもはサラサラな比奈山の髪の毛は、その毛先が汗で濡れて枝分かれしていた。
 比奈山の結ばれていた口が「お」と小さく開いたけれど、それ以上は何も言わなかった。公園内に入ったばかりの僕がすぐさま立ち去るのもおかしな話なので、僕は軽く片手を上げ、比奈山に挨拶をしてみる。
「お前って、このあたり?」
 どう言葉を発しようかと思いあぐねている間に、比奈山がそう言った。
「あ、いや」僕は首を振り、自分が自転車でやって来た道を指差す。比奈山はさして興味なさそうに「ふん」と頷いた。
「お前、ここで何してんだ」
「あ、ほら、鉄塔……」僕は公園の外を指していた指を、そのまま、比奈山の後ろに聳えている鉄塔へと向けた。
「なんで?」
「いや、この鉄塔に何かあるんじゃないかって、昨日」
「ああ、帆月か」
 比奈山はそう言いながら、再び背筋を反り、空を見上げた。太陽の光が眩しいのか、睨むように目を細めている。
 それからしばらくの間、蝉が鳴くばかりの、会話のない時間が過ぎていく。
 幽霊騒動が起こる少し前の比奈山は、人当たりがよく、比奈山の周りにいた運動部連中のように、非運動部の僕らを馬鹿にする素振りも見せず─もちろんこれは僕ら特有の被害妄想なのだろうが─、比奈山とは挨拶程度しか話をしたことはないけれど、比較的に好印象を抱いていた。でも、幽霊騒動が起きてからの比奈山はみるみるうちに荒んでいって、ひょっとしたらこちらの姿が本当の姿だったのかも知れないけれど、ぎすぎすとして近寄り難い雰囲気になった。もっとも、比奈山自身が学校に来なくなったので、顔を見る機会も滅多になかったのだが。
 あんなことがあって、周りからも陰口や意味深な視線を送られたら、比奈山がこんな風になってしまうのは、あるいは仕方のないことなのかもしれない。かく言う僕だって、今でも、あの時みたいに比奈山が急に騒ぎ出すのではないかと恐れている部分がある。
「……何か見えたか」
「ううん─」僕は再び鉄塔を見上げた。「別に、普通の鉄塔に見える」
「そうか」
 比奈山は納得したのか小さく頷いた。
 彼はしきりに、首からぶら下げた何かを触っている。最初は家の鍵か何かかと思ったけれど、よく見るとそれは細長い紐で繋がれた紫色の小さな布袋で、神社などで買えるお守りのように見えた。
 僕の視線に気が付いた比奈山は、小さく舌打ちをしながらそれをTシャツの中へしまい込んだ。
「暑いな」と比奈山が呻く。リュックから水筒を取り出そうかと思ったけれど、自家製の麦茶を持ってきていることが急に気恥ずかしく感じられ、ためらってしまう。
「おーい!」
 何と言って比奈山に麦茶を勧めるかを考え、いざ水筒を取り出そうと決意した所で、公園の外、駐車場の方から声が聞こえた。公園と田圃の間は砂利の敷かれた駐車場になっていて、あまりしっかりと整備されているとは言えないけれど、何台か車が駐車してある。その奥には何本かの木々が植わっていて、砂利の駐車場と田圃の間に取り残された、小さな小島のようになっていた。
「やっほー」
 駐車場から元気よく手を振っているのは帆月だった。真っ白のタンクトップに短パン姿の帆月はいかにも健康優良児といった感じで、僕はその姿に思わずドキリとした。
 帆月の手招きに促され、僕と比奈山は揃って公園の外に出る。
「どう? 何か見えた?」
 帆月が指差した鉄塔の天辺を、僕も比奈山も同じように見つめた。けれど、料理長の帽子には避雷用の架空地線が一本通っているだけで、目新しいものは何もない。先ほどまで止まっていた蝉もどこかに行ってしまったようだ。
「男の子が座ってない?」
「男の子?」
「見えない?」
「……何も」比奈山が首を振る。
「えっ、本当に? 伊達くんは?」
「いや、僕も何も……」
「あそこだよ。鉄塔の天辺の右側」
 帆月が僕の横に並び、指を差す。あまりにも真剣なので、僕はとにかく目を凝らした。
「右の腕金?」
「そう、右側の上に座ってる」
 そう言いながら、帆月が顔を寄せてくる。僕はまたドキリとして、横目で帆月の顔を見つめた。そんな僕のふしだらな思いに気が付いたのか、帆月は右の手で僕の後頭部を、左手で僕の顎を持ち、ぐい、と僕の顔を鉄塔の頭頂部に向けた。
 その時、無理やり捻られた首の痛みと一緒に、鉄塔の上に何かがいることが、僕にもはっきりと見て取れた。
「あっ」僕は思わず大きな声を上げた。
 それに驚いた帆月は僕の顔から手を離す。途端、見えていた何かは、切り取られたみたいにふっと消えてしまった。
「あれ、見えなくなった」
「見えたの?」
 帆月が驚きの声を上げる。僕は大きく頷いた。
「一瞬だったけど、多分」
「もう見えない? どうして?」
「分からないけど……」
「もう一度やってみろよ」
 比奈山が冷静に言った。さっきまで何をやっていただろう、と考えるよりも早く、帆月は僕の顔を両手で掴むと、ぐいと捻った。
「痛っ!」
「どう⁉」
 首を捻られ、傾いた視線の先には、再び、異質なモノが当たり前のように存在していた。鉄塔の頭頂部に腰掛けている、着物の男の子。
「み、見えた。着物を着てる」
「本当?」
「うん」僕は再び大きく頷く。
「じゃあ、こうすると?」帆月が僕の頭から手を離す。すると、やはり男の子の姿は初めから居なかったかのように消えてしまった。
「……いなくなった」
「頭を掴むことが鍵なのかな。比奈山くんもやってみよう」
 両手を突き出して襲い掛かる帆月の手首を、比奈山は素早く掴んだ。取っ組み合いのような体勢になりながら、比奈山は鉄塔へ顔を向ける。
「見えた」比奈山の細い目が少しだけ開かれた。「子供だ」
「触ればいいの? 片手でも平気?」帆月が比奈山の腕から片手を解く。
「まだ見える」
「じゃあ」と言って、帆月は僕の左手首を掴んだ。「これだと?」
 僕の目に、再び男の子の姿が映し出された。男の子は鉄塔に腰を掛けていて、時折足を交互にぱたつかせながら、荒川の方を見つめている。白地に青色の格子柄が施された着物は涼しげで、不思議と夏の空に映えている。
「見える」
「すごいすごい!」
 帆月は感動しきりだった。そうやって僕ら三人はしばらくの間、不恰好な形で手を繋いだまま、ぼんやりと鉄塔を眺めていた。
「ねえ、本当にこの鉄塔は何もないの?」
 鉄塔を見つめながら帆月がそう言った。「何だっけ。けい、けいお─」
「京北線」
「それ! 京北線は特別な電線とかじゃない?」
 帆月の問いに僕は首を振った。これといっておかしな鉄塔ではないはずだ。
「ちょっとも? ちょっとも変わったところはないの?」
「ええと……」
 少しむきになった帆月をなだめるべく、僕はなるべく落ち着いて、知っている限りの情報を話す。
「京北線は、南川越変電所から始まって、荒川とか高速道路とか、新幹線の高架を越えて、草加にある京北変電所に着くんだ。昭和の始め頃に設置されたんだけど、その当時は青梅にあった開閉所と繋がってたんだって。今はもうその開閉所もなくなって、京北線の鉄塔もほとんど建て替えられてるんだ。この94号鉄塔も昭和六十一年に新しくなってる。だから、今あるこの鉄塔自体は、実際は二十年くらいの歴史しかないんだよ。
 京北線の鉄塔は全部で百五十基くらいあるから、このあたりの送電線に比べたらかなり長い路線だと思うけど……電圧も特別高いわけじゃないし、本当に、普通の路線なんだよ」
 ありったけのことを話し終えると喉が渇いた。リュックの中の水筒に手を掛けるけれど、やはり取り出すのはためらわれる。
「……伊達くんって、やっぱり気持ち悪いね。変だよ」
 帆月が少し呆れた調子で言った。隣にいる比奈山も無言で肯定する。
 僕はこの二人には言われたくないと思いながら、なるべく当たり前のように水筒を取り出し、コップも兼ねている蓋に麦茶を注ぐと、ごくりと飲んだ。麦茶は冷えていて、水筒の中に入っている氷がカランと音を鳴らす。
 すると、帆月は無言で手を差し出してきた。初めは何の意味だか分からなかったけれど、それが水筒を渡せという要求だと気づき、僕は慌てて蓋に麦茶を注いだ。
「夏は麦茶よね」
 帆月は麦茶を一気に飲み干した。麦茶を呷っている帆月の喉を、大きな汗の粒が這うように流れていくのを、僕はちらと見つめた。
 それから、帆月が何度か鉄塔の男の子に呼びかけたりもしたけれど、男の子は聞こえていないのか、それとも聞く気がないのか、何も反応を示さなかった。
 公園に戻ると、木陰に置かれたベンチに帆月と比奈山が並んで座り、僕は丸いジャングルジムの隙間に腰掛けた。
「あれは幽霊? 比奈山くんが見えないとなると、妖怪か何か?」
 帆月はしきりに疑問を口にする。僕には当然分からなかったし、比奈山もよく分からないとのことだった。
「深く関わらない方がいい」
 比奈山は、男の子について知りたがっている帆月を窘める。
「何で? だって気になるじゃない」
「お前、最近何かあったか?」
「……え?」
 比奈山の問いに、帆月は目を丸くする。ほんの少しの間があって、それから帆月は小刻みに顔を振った。否定したつもりだったのだろうけれど、帆月は少し動揺している気がする。
「家族か親戚が死んだとか」
「ないよ。無事は無事」
「そうか」
 比奈山の質問の意図が分からなかったけれど、それで比奈山は納得したのか、「ふん」と黙り込む。
 そうしてしばらくそれぞれが思案に暮れていると、「じゃあ」と比奈山がおもむろに立ち上がった。
「比奈山くん、帰るの?」
「ああ、塾」
 比奈山はそのまま、一回もこちらを振り返らずに、どこかに止めてあった自転車にまたがって、さっさと公園から離れていく。
「学校には来ないのに、塾行くの」
 小さくなった比奈山の後姿を見ながら、帆月はけらけらと笑い出す。僕も「そうだね」と追従して笑う。そして、空いたベンチの端へ座り直した。
 それから再び沈黙が流れる。とは言っても、黙っているのは僕らだけで、どこかの木に止まっている蝉の鳴き声がうわんうわんと公園内に反響していた。水分を多く摂りすぎたせいか、ひっきりなしに汗が流れ出す。何か話題はないかと、朦朧とする意識の中で必死に考えていると、額に流れた汗を拭う帆月の肘に、一筋の白い線が入っていることに気が付いた。
「その傷」
 僕が指差すと彼女は「あ」と笑う。
「前に飛んだ時の。消えなかった」
 帆月は傷跡を指でさっと撫でる。
「大丈夫なの?」
「全然。痛みもないし」
 僕は女性の肌に怪我の痕が残ってしまったことを気にしていたのだけれど、帆月はさして気にした様子もなく「こっちもちょっぴり」と反対側の腕にある傷を見せてきた。
「昨日も揉めてたね」と僕が言うと、帆月は恥ずかしそうに「あ、見てたの?」と苦笑いを浮かべた。
「先生に捕まってた」
「そうなんだよね。もう学校じゃ無理かなー」
 こっぴどく怒られたはずだけれど、帆月は少しも懲りた素振りを見せていない。
「伊達くんって軽そうだね」
「え?」
「体重は?」
 僕は問われるまま、自分の体重を告げる。
「ひどいもんだ。女の敵」
 帆月が顔を顰めた。「でも、今回は好都合だね。伊達くん、足遅そうだけど」
「……何の話?」
「伊達くんも空を飛ぼうって話だったじゃない」
「は? いやいや」そんな話ではなかったはずだ。僕は思い切り首を振って否定する。
「あ、そう言えばさ、天文部、辞めるんだって?」
 放っておくと帆月が波のように攻め立ててきそうだったので、僕は話題をそらした。
「うん」と帆月は軽く頷いてみせる。
「次はどうするの」
「……次かあ。ううん、あんまり考えてないんだけど……美術部にしようかな。鶏を描いてみたくて」
「にわとり?」
「そう、若冲」
「はあ、じゃくちゅう」おそらく、そういう鶏がいるのだろう。
 顧問の先生や所属している生徒との関係を考えると、転部は気が引けてしまうはずだけれど、帆月はそういうしがらみなど少しも意に介さないようだ。
「星は、もういいの?」
「うん、もういい」
「全部覚えたんだ?」
「まさか。一個だけ見たい星があって、それを見れたからもう満足。星の名前も結構覚えたけど、またすぐ忘れちゃうんだろうな。新しいことを覚えると、古い記憶はどんどんなくなっちゃうね。でもそうしないと、頭の中が一杯一杯になっちゃうから、仕方ないんだけどね」
 帆月はあっけらかんとしている。
「ね、それより読書感想文の鉄塔の本ってどんな?」
「……別に、普通の本だよ」
「世の中に〝フツーの本〟なんて本はないでしょ。それとも、少しも面白いところがない本の読書感想文を書いたってこと?」
「そんなことないよ」
「じゃあ、どんな内容なのか教えて」
 帆月に諭されるようにして、僕は何回も読んだ物語の内容を思い返す。
「ええと……小学生が鉄塔を追いかけて冒険をする話なんだ。その子の家の近くには武蔵野線が通っててね」
「武蔵野線っていうのは、電車のことじゃないのよね?」
「ああ、うん。新座のほうを走ってる送電線で、実際にあるよ」
「へえ、新座。案外近いね。でも、京北線は京浜東北線みたいだし、武蔵野線はまんまだし、ややこしいな」
 帆月はそう言って口を尖らせた。確かに、送電線は電車の路線と誤解されることが多い。
「─その子は、近所にある鉄塔に不思議な魅力を感じていて、ある日、武蔵野線の鉄塔を遡ってみようと思うんだ。1号鉄塔の先には何があるんだろうって」
「何があるの?」
「発電所」
「あ、そうか」
「そういう冒険譚。この主人公の行動を真似て、鉄塔を巡る人も多いんだよ」
「面白いね。ねえ、昔から鉄塔が好きで、だからこの鉄塔の側で遊んでたの?」
「え? ああ、うん。鉄塔好きは昔からだけど、この辺で遊んでたのは、たまたま友達がここの近くに住んでたからで……」
 そこで、僕はふと疑問に思った。
 帆月の言う通り、この鉄塔の側で遊んでいたことがあるのは確かだけれど、どうして帆月がそれを知っているのだろう。
「まさか……僕の読書感想文」
 そこまで言うと、帆月はわざとらしく舌をペロッと出して、
「見てないよ」と明らかな嘘をついた。
「酷いな。どうやって見たの」
「まあ、色々とね」
 そう言って彼女は不敵な笑いを見せつつ、あっさりと認めた。
「なかなか、いい感想文だったね」
「あ、そう?」
 ストレートに褒められると、やはり照れてしまうけれど、僕としてもよく書けた内容だったと思うので、素直に嬉しかった。
 僕が昔友達と遊んでいたこの鉄塔は、さらに過去に遡れば、鉄塔すら立っていない時期があったわけで、それがどういう景色だったのか、僕は知らない。僕と友人のように、遊んでいた子供なんかがいたのかも知れない。そういうことに思いを馳せることで、死んだ街を蘇らせることが、あるいは出来るのかも知れない─と、そんな締めくくりだった。
「そのお友達とは、今でも遊んだりするの?」
「いや、もう……ずいぶん会ってないかな」
「そうなんだ。その友達も、鉄塔が好きとか?」
「ううん、好きなのは僕だけ」
「じゃあさ、伊達くんはやったことがあるんだ? この京北線巡りとか」
 帆月が明るい顔で訊ねてくる。僕は「いや」と首を横に振った。
「どうして? 鉄塔好きなんじゃないの?」
「……好きだけど」
「1号鉄塔の先とか、どこにどんな鉄塔があるとか、気にならない?」
「どこに何号があるとか、大抵の情報は得られるからね」
 僕はそう言いながら、キーボードを叩く仕草をしてみせる。鉄塔愛好家は全国にわたってそれなりに人数がいるらしく、その手のサイトも多数存在しているのだ。もちろん京北線の鉄塔の写真もそういうサイトに掲載されている。
「じゃあ、この鉄塔のそばにこんな公園があって、砂場にスコップが忘れられてるとか、鉄塔の天辺に子供が座ってるとかも分かるの?」
「いや、それは分からないけど……」
 そもそも天辺の子供の存在は、その場所に行ったとしても分からない。
「近場の鉄塔は、一応見て回ったんだ」
 僕はまるで言いわけでもするように、帆月に言った。
「近くの鉄塔って、どのくらい?」
「……十とか、十五とか」
「それだけ? それで満足してるの?」
 帆月は眉を寄せている。
「……さっきも言ったけどさ、京北線は長いんだよ。百五十基もあるんだ。それに、鉄塔って道路に沿って立ってるわけじゃないんだ。森の中を通ってたり、川を越えたりしてて、追い掛けるだけでも大変なんだよ」
 帆月は眉を顰めたまま頷き、先を促す。
「……それに、どこにどういう鉄塔が立ってるかは、知ってるし」
「何があるかは知ってるから、行く意味なんてない?」
 僕は頷いた。知ってるから行く意味なんてない。確かに僕は、どこかでそう思っているかも知れない。
「それは知ってるなんて言わない。行ったことも、やったこともない奴が意味ないなんて言っちゃ駄目よ。やってみて初めて〝ああ、これは意味なかったな〟って分かるんだから」
 帆月は急に真剣な口調になって僕を叱った。
 意味がない、と言ったのは僕ではないのだけれど、何も言い返せなかった。帆月の旺盛な好奇心の源を垣間見た気分だった。
「分かった?」
 帆月の言葉に、僕は再び大きく頷いた。「よろしい」と彼女も頷き返す。
「じゃあ、手始めにやれることからやりましょう」
 どうして敬語なのかが気になったけれど、それには触れずに「やれること?」と返すと、帆月は笑って、
「伊達くんが今出来ることは、自転車で空を飛ぶことでしょ」
 と、満面の笑みを見せた。

 次の日。
 再び自転車にまたがり、94号鉄塔横の公園へ向かう。
 青空に一つ、厚い雲が城のように聳えていて、夏の空は高い。昨日とほとんど同じ時間に到着したのだけれど、公園には女の子が一人砂場で遊んでいるだけで、他には誰も来ていなかった。
 昨日は、どうにか帆月の意識を鉄塔の子供へとそらし、早々に公園から退散した。自転車で空を飛ぶなんてまっぴらだ。それでも、今日もこうしてここへやって来てしまったのは、昨日の帆月の言葉が心に残っていたからかも知れない。
 公園の入り口に自転車を止めて、フェンス側にあるベンチの前に立ち、鉄塔を見上げてみる。僕一人では、やはり男の子の姿は見えなかった。頭頂部の腕金をじっと見つめても、僕の視界には、鉄塔と、その向こうの高い雲が映るだけだ。
 ふと思い立ち、この公園の周辺を探索してみることにした。ひょっとしたら、何か手がかりがあるかも知れない。
 公園の中から外を見渡してみると、砂利の敷かれた駐車場の先に、少しだけ木々の生えた孤島のような場所が目に留まった。
 昨日は鉄塔に夢中であまり気にならなかったけれど、どうしてそこだけに木が生えているのだろう。駐車場にもならず、田圃にもならず、その一角だけが手付かずで残されている感じだ。
 僕は公園から外に出て、止めた自転車の横を通り過ぎ、木の生えている場所へと移動した。近づいてみて分かったのだけれど、高さが鉄塔の半分にも満たない木々の間に、ちらちらと赤いものが見える。何だろうとさらに近寄ると、その赤いものは箱の形をしていて、箱の上には屋根が付いていることが分かった。
 ぐるりと箱を回り込んでみる。すると、屋根の付いたその赤い箱の正体が分かった。
 箱の前には小さな狐の像が二体、対になるように置かれていた。どれくらいの年月を経たのか分からないけれど、石で出来ているはずの狐は苔むして緑がかっている。右側の狐の前には、これまた小さな石灯籠があり、箱の正面にあたる場所には、屈まなければ潜れないくらいの小さな鳥居が立っていた。鳥居の額束には何やら文字が書かれていたけれど、辛うじて「社」という字が読み取れる以外は何も分からない。
 赤い箱は、小さな社だったのだ。このあたりの誰かが大切に信仰しているのか、赤い色は塗られたばかりのように綺麗な発色をしている。木々に囲まれたうっすらと暗い空間で、その赤の色が怪しく光っているようで、僕は急に怖くなり、木々の蔽いから外へ抜け出した。
 再び公園へ引き返す。ひょっとしたら誰か来ているかとも思ったけれど、相変わらず女の子が一人砂場で遊んでいるだけだった。
 今度は反対側、荒川方面へ向かってみる。土手にはそこらじゅうに草が茂っているけれど、何度も土手を人や自転車が登ったからか、草が均されて轍になっていた。
 一歩ずつ丁寧に歩を進めて土手を登りきると、そこは広大な秋ヶ瀬公園が広がっている。荒川左岸には堤防が二つあるから、僕が立つ外側の土手からでは、荒川の流れを眺めることは出来なかった。
 荒川は埼玉から東京へ流れ、やがて東京湾へと至る日本有数の一級水系であり、またとても洪水の多い川だったらしい。こちら側に堤防が二つある理由は、荒川第一調節池があるためで、その調節池がゆったりと水を湛えている姿のみがちらりと窺える。
 その貯水池の手前に、94号鉄塔から送電線を受け取っている小さな93号鉄塔がある。料理長型の94号とは違い、その頭は三角形をしていて、三角帽子鉄塔と呼ばれる鉄塔だ。恐らく多くの人が、鉄塔といえばこの形を想像するだろう。
 荒川左岸に立つ93号鉄塔の周りは、のんびりと芝が広がる広場になっている。芝の一角には砂利が敷き詰められていて、野球場のようになっていた。土で出来た野球場とは違い、近代的な広場といった趣がある。僕は土手をゆっくりと降りて、ノックの練習をしている親子連れを横目に、93号鉄塔の足元に立った。
 京北線93号鉄塔は子供が立ち入らないように茶色のフェンスで囲われていて、えいやっと前後に伸ばした碍子連が可愛らしい。しかし、その93号鉄塔のすぐ後ろには、広場には似つかわしくないクレーンが一台、それと作業台と思しき背の高い鉄骨が四角く組まれていた。鉄骨の内側に灰色のコンクリートの柱が四本、天に向かって聳え立っており、その上にはほんのちょこっとだけ組み上げられた、紅白に塗られた鉄塔の脚が見える。
 ここに、新しい93号鉄塔が建設される予定なのだ。今は背の低い93号鉄塔が送電線を前後に張っているけれど、やがて完成する後ろの鉄塔へ引き渡されるのだろう。もう間もなく、この小さな鉄塔の碍子は取り外され、鉄骨も何もかもが跡形もなく消えてしまうと思うと、何ともやるせない気持ちになる。
 せめて写真に残さなきゃ─使命感に駆られ、僕は何度もシャッターを切った。
 そうやってあらゆる角度から鉄塔を写真に収めていると、ふと、僕と同じように小さな93号鉄塔を見上げている少年の姿が目に入った。
 真っ白い肌をした不健康そうな少年。血色の悪い顔を太陽に曝しながら、しかし汗一つ流すことなく空を見上げている。
 僕が視線を送っていると、彼もまた僕の存在に気が付いたようで、小さく片手を上げて挨拶をし、こちらに近付いて来る。
「やあ、伊達くん」
「やあ、明比古」
 彼の名前は財前明比古。僕と同じ中学校に通っている三年生だ。とは言えクラスが違うからか、学校ではあまり見かけたことがない。一見して病弱そうに見えるので、比奈山と同じくあまり学校に登校してはいないのかもしれない。

 彼と初めて出会ったのは、日差しもさほど強くなかった七月の初め、夏休みに入る少し前の頃だ。僕は課題をさっさと終わらせてしまおうと近場の鉄塔をぐるりと回っていた。
 鉄塔をぐるぐる回りながらデジタルカメラで撮影していると、送電線を見上げている明比古と出会った。その時の彼も今と同じように、小さく片手を上げて挨拶をしてきたように思う。
「やあ…………伊達くん」
 あの時、彼は僕の名前を呼んだ。あれ、知り合いだったかな─と記憶を辿ってみたけれど、どうにも思い当たる節がなかった。ただ、僕と同じく鉄塔好きなのかな、とだけ思っていた。
「ええと─」
 彼が自分の名を知っていたということは、つまり僕と彼は知り合いだということになる。彼の名前を思い出さないと、これは気まずいことになるぞ、と焦っていたのだけれど、僕の思惑などお構いなしに、彼はてくてくとこちらへ歩み寄って来た。
「キミ、この写真を撮っているのかい?」
 彼はそう言って、白く細い指で送電線を指差した。
「あ、あの……君は」
 暑さと緊張とで汗が止め処なく流れていく。おずおずと尋ねてみると、彼はほんの少しだけ目を細めた。
「明比古だよ。君と同じ学校の、財前明比古」
 明比古─そうだ。彼の名は明比古じゃないか。名前を聞いた途端、そう言えばどこかで見たかも、という思いがフッと湧き上がる。
「キミはこの─送電線が好きなのかな」
 明比古は僕が失念していたことなど意に介さず、今にも消え入りそうなくらい細い声でそう尋ねてきた。狐のように細い目の奥で、小さな黒い瞳が太陽に照らされて光っている。
「うん。まあ、これだけじゃないけど」
「詳しいのかな?」
「うん……まあ」
 明比古に尋ねられ、僕はこの送電線について知っていることをざっくりと説明した。鉄塔好きではなかったのが少し残念だったけれど、彼はうんうんと真剣な表情で頷いていて、僕は自分を棚に上げつつも、珍しい人間もいたものだと思っていた。その後、このあたりに川が流れていなかったか、とか、あそこに何々があったはずなんだけれど、と尋ねてきたので、それについても知る限りの情報を述べた後に、地理歴史部を勧めておいた。このあたりの地形については、部活の連中の方がずっと詳しい。しかし、その後彼が部を訪ねて来ることはなかったので、僕の弁舌はたいして心に響かなかったのだと思う。
 それが、僕が覚えている初めての彼とのやり取りであり、それから彼と会うことは一度もなかった。もっとも、学校での僕は社交的な方ではなく、むしろ排他的と言ってもいいような暮らしぶりだったので、それが影響しているのかも知れない。

「やあ、伊達くん」
 彼は一ヶ月前と変わらず不健康そうな顔をして、僕に挨拶してきた。そしてまた、僕に質問を投げかけてくるのだった。
「この後ろに造っているのも鉄塔だよね? どうして二つ造っているんだろう」
 彼は京北線93号鉄塔の後ろに組み上げられている未完成の鉄塔を指差して言った。
「これは建て替えだね」
「建て替え?」
「うん、この小さいやつを壊して─」
「壊す? これ、壊してしまうのかい?」
 白い顔をぐいと上げ、明比古は背の低い鉄塔を見上げる。
「うん、もう古いから」
「そうなると、線はどうなってしまうんだい?」
「ああ、送電線ね。それはこっちに新しい鉄塔が建つから、そこに引き継がれると思うよ」
「引き継がれる……」
 明比古は顎に手を当てると、新しく造られている93号鉄塔の足場をちらりと見た。
 93号鉄塔は京北線の原型鉄塔─とくに古い鉄塔であり、昭和五年からずっと働き続けてきた鉄塔だ。しかしそれ故に、耐久年数にも限界が来ている。また、もしも荒川が氾濫した時のことなどを考えると、川の側の鉄塔は足場を高く組んでおいた方が安全性も遥かに高い。
 しかしこれで、このあたりの原型鉄塔は全部なくなってしまうことになる。
 記憶によれば、この荒川周辺には原型鉄塔が四基並んでいたはずだ。けれど今はどれも立派な鉄塔に建て替えられてしまっている。92号鉄塔に於いてはその存在そのものがなくなり、代わりにとても高い紅白の91号鉄塔が、その役割を引き継いでいるのだ。
「そうか。代わりがあるなら、よかった」
 そう言った明比古は、しかしその表情を変えることなく送電線を見上げていた。
 彼が何を考えているのか、僕にはさっぱり分からない。帆月と比奈山もよく分からないし、最近の僕の周りはわけの分からない人だらけだ。分かりやすいのは、地理歴史部の部長である木島ぐらいか。
「明比古はどうしたの? 土手を散歩?」
「うん、そんな感じかな」
 明比古は送電線を追うように視線を動かし、土手の先にあるであろう荒川の方へと目を向ける。
「新しい鉄塔はいつ完成するんだろう」
「ううん、まだもうちょっと掛かると思うけど……何よりまず鉄塔を組み上げないといけないしね」
「そうか……もうちょっとか」
「うん。だからそれまではこの鉄塔も現役のままだと思うけど」
 そうか、と意味深な顔で明比古は呟くと、目を細め、口の端を持ち上げた。笑顔のはずなのに、どうにも笑っているように見えないのは、明比古の顔がビスクドールのように白くて人工的だからかもしれない。
 太陽は今や南中を迎えようとしていて、陽光を受けた芝生から蒸すような熱気が立ち上っている。体中から延々と汗が吹き出し、このままここに立っていたら熱中症になりかねない。
「それじゃ、そろそろ行くね」
 僕が言うと、明比古は「また今度」と片手を上げ、小さく振って見せた。僕なんかよりもずっと貧弱そうだけれど大丈夫なのかな、と思いつつも、僕は土手を上って93号鉄塔を離れ、94号鉄塔の隣にある日陰を目指す。
 背後からキン、と金属バットがボールを打ち返す音が聞こえた。

 再び公園へ戻ると、園内に人の影があることに気が付いた。それは帆月と比奈山で、僕は咄嗟に木の陰へと隠れた。どうして隠れたのか、自分でもよく分からない。けれど、公園内に入る機を逸した気がして、しばらくじっと木の陰から二人の姿を窺っていた。
 二人は鉄塔の真下にあるブランコ横のベンチに座り、鉄塔を眺めるでもなく談笑している。砂場の女の子はいつの間にかいなくなっていた。僕が93号鉄塔を眺めている間に、ちょうどタイミングよく二人がやってきたのだろうか。まるで、待ち合わせでもしていたかのようだ。比奈山は鞄から大小さまざまな本を取り出し、それを帆月に渡した。帆月は目を輝かせてそれらを受け取ると、その中から一冊を選んで、楽しそうにページを捲っている。
 僕の知らないところで、連絡を取り合っていたのだろうか。急に、自分が異物であるように思えてきた。
 よく考えれば、僕はあの鉄塔についての知識を求められただけで、見に来いと言われたわけではない。帆月も比奈山も何かが見える不思議な力を持っているようだけれど、僕には何もない。それに、何と言っても、帆月は美人で、比奈山は男前なのだった。
 今の今まで、僕の体の内側に籠っていた熱のようなものが一気に四散し、昨日も今日ものこのことやって来た自分の行為が恥ずかしく感じられ、一刻も早くこの場から立ち去りたい気持ちで一杯だった。しかし、僕の自転車は公園の入り口に置いてある。あれを見られたら、自分がここにやって来ていることが二人にばれてしまう。あるいは、もう気付かれているのかも知れないけれど、自転車を取りに行くと、どうしてもベンチに座っている二人の視界に入ってしまう。
 しばらく思いあぐね、夜にでも取りに来ればいいと考えた僕は、とにかく公園から離れることにした。最初はゆっくりと、そしてある程度離れたら駆け足で走り出す。
 すぐに息が切れ、汗が目に染み、それでも走った。息を吐くたびに脳の中が煙っていくようだった。
「伊達くん足遅そうだけど」と頭の中で帆月の言葉が聞こえる。
 こんなに必死で走っているのに、驚くほど先に進まなかった。



 それから二日間は、外に出ることもなくじっと家で過ごした。
 あの日、夕日が沈みかけた頃に自転車を取りに行ったのだけれど、誰かに持ち去られてしまったようで、自転車はなくなっていた。薄闇の中で、工場跡や駐車場のあたりを捜してみたけれど、やはり自転車は見つからなかった。そう言えば、ずっと自転車の近くにいるつもりだったので、鍵を掛けてはいなかった。帆月と比奈山の姿も既になく、二人が去った後の94号鉄塔は夕闇の中で黒く染まり、まるでこの世界から鉄塔だけがそっくり切り抜かれたようだった。どこかでカナカナが鳴いているけれど、姿は見えない。僕は怖くなり、再び元来た道を小走りで帰った。日に三度も往復したせいでくたくただった。母親に自転車の所在を尋ねられたので、友人に貸したと必死に誤魔化したりと、身体も心もぐったりと疲れていた。
 そんなせいもあって、このところずっと外に出る気力を失っていた。
「成実」
 階下から母親の呼ぶ声が聞こえる。
「あー」僕はパソコンの前に座ったまま返事をした。
「お友達よー。木島君」
「あー」
 木島と遊ぶ約束はしていなかったけれど、いつだって連絡なしに訪ねてくるやつなので、今更驚くこともない。階段を上がる音がすると、しばらくして僕の部屋のドアが勢いよく開かれた。
「荒川のマンションに行ってきたぞ!」
 木島は部屋に入るなりそう言った。大きな顔にダラダラと垂れる汗を、首に掛けたタオルで荒っぽく拭いている。
「へーえ」
「三十階建てマンション、リバーサイド荒川。絶賛工事中断中」
「知ってるよ」
「荒川側の壁にさ、鍵が掛かってないところがあって、そこから工事現場に入れるんだよ。まあ、結局建物の中には入れなかったんだけどな」

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 ここまで読んでいただけたことが、何よりの励みとなります! もし、ご支援をいただきましたらば、小説家・賽助の作家活動(イベント交通費・宿泊費・販促費など)にありがたく使用させていただきます。(担当編集・林拓馬)