レッスンとは「耳を借りること」なんだろう
ピアノの世界では「弟子入り」という言葉がある。
わたしは自分の生徒さんを「弟子」???とはそんなに思ってないし、「さい先生の門下で…」と生徒さんから言われることはあるけど、「わたしの門下!」と思ってるわけでもない。
でも、そんなわたしも大学生のときは敬愛する先生の門下生であることを誇りに思っていたし、「門下」という概念もけっこう懐かしく信頼できる思い出がある。
なぜレッスンを受けるの?
ところで、先日ふと思ったこと。
レッスンって、何なのだろう?
なぜ人は、レッスンを受けるのだろう?
もちろんたくさんの理由がある。
・音楽の理想や基本を教えてもらう
・上達の道を示してもらう
・弾けないところを教えてもらう
・導いてもらう
・ヒント・発見を得る
・メンタル面でも様々な影響を与えられる
まだまだ、そりゃあもういくつもある。
でも、ふと思った。
レッスンを受けるということは、相手の(つまり先生の)
「耳を貸してもらう」
ということではないか。
レッスンでは、耳を借りている
曲のレッスンを受けていると、言われたこととか、楽譜の一部分とか、自分が気になってることとか、いろいろな要素がありすぎて忘れてしまいそうだけれど。
自分にはない、自分がもっていない「耳」つまり「耳の使い方」「聴き方」で、自分の演奏を聴いてもらう。
これってすごく貴重なこと。
そこから出発して、耳を借りて、考え方を借りて、それまで歩んできた人生を借りて…
そして、借りたものを自分に統合させて、もしくは新しいものに昇華させていって、自分の耳や考えや人生を作っていく。
誰の耳を借りるのか、借りたいのか
そう思えば「誰のレッスンを受けるか」ってものすごく重大なこと。
言い換えれば、「誰の耳を借りるか」ってこと。
同じ音を聴いても、同じ演奏を聴いても、100人いれば100通りの耳や聴き方があり、気づくことも感じることも異なる。
もちろん感性も、頭脳も、人柄も100通り。
でも、その出発点は、やはり「聴く耳」。
往年のピアニストにレッスンを受けるなら誰かな〜、とかときどき空想したりするし、「あのピアニストなら何て言うだろう」と想像することもあるが、「耳を借りるなら」と思うと、またちょっと違ってくる気がする。
それだけ、耳には個性があって、それが演奏を色濃く映し出す。
「耳」は似てくる
冒頭の「門下」の話に戻るが、単発レッスン等でなく長年同じ先生についてその先生との信頼関係が強いほど、「耳の使い方」は似てくると思う。良くも悪くも。
そういえば以前コンクールで、中高生時代に同じ先生に習っていた先輩とたまたま審査員として同席したのだが、驚くほどに評価の付け方が似ていたことがあった。
もちろん全く同じということはありえないが、世界の膨大なピアノ関係者、演奏者、指導者、学習者、愛好家などをざっくり分類していけば、近い道を歩んだ人は近い耳を持っていると思う。
これまでも、ひとのレッスンをするということは責任重大だと思っていたが、「わたしの耳を貸しているのかもしれない」と思うと、ちょっとおそろしくなった。
なんと多くのことが自分の肩にのしかかっているのかと…
4つの耳
もちろん生徒の耳を閉じてはいけない。それでは何の意味もない。
レッスン中、そこには4つの耳があるのだから、その場で意見交換や可能性の広がりもある。
生徒に意見を聴くと、全然ちがうことを気にしたり聴いたりしていた、ということはよくあることだ。
(とはいえ年月を重ねると、生徒もわたしと近い観点で聴いて同じ感想を持っていた…というケースも同じくらいある)
あるいはわたし自身も、いろんな人のレッスンをする中で(もちろん自分がレッスンを受けたりアンサンブルしたり聴いたりすることも含む)、
どんどん耳が変化していく。
その耳を、また自分自身の演奏や次のレッスンに用いていく。
そうして循環していく。
レッスンとは「耳を育てること」という言葉を聞いたことがあるが、それならばそこに、繊細で敏感で受容力のある耳がなければならない。
あなたは誰の耳を借りたいですか?
誰の耳と、反応しあいたいですか?
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