「形」の美と、「形にならないもの」のきらめき
音楽を奏する中で、「形にする」というプロセスは大切だ。
「時間×音」という形にしないと、頭の中、心の中にある音楽像はこの世に出てこない。
いや、存在しているのかもしれないけれど、人に認識してもらえない。
だから、演奏家は音楽を形にする。
(…そもそも「時間×音」だって、目には見えないし触ることもできないから、形ではない…のかもしれないが、それはここでは触れないことにする)
ところでわたしは職業柄、小さい子や学生さんの演奏を聴く機会もよくある。
なるほど、見事に「形になっている」演奏は、それだけで価値がある。
ピアノの楽譜上の膨大な情報と構造を、人に伝わるように組み立てて整えて、ときには自らの理念や思いも加味して、非の打ち所なく音にしていく。
これは並大抵の技量や時間でできることではないし、「適切に形にできる」という、演奏者としてのスタートラインに立てたという証でもある。
しかし、「形になっていない段階」でも価値あるものはある。
・なにかを見出そうとしている瞬間。
・答えは見つかっていないが、道筋を見つけた。
・未来が見える。
・自らを問うて、変化している過程。
それは果てしない可能性を秘め、広がりのあるものだ。
残念ながら、評価社会の中では「形になっていない」時点で、それは評価されないことが多い。
それは、しかたのないことだ。
誰だって、ラーメン屋に入ったなら「けっこう美味しいラーメン」「かなり美味しいラーメン」が食べたいわけで、「秘伝のスープに新しいエキスを加えた研究段階のもの」だけを麺無しで味わいたいわけはない。
舞台に出る以上、「形にする」必要があるわけだ。
だから、どんなに未来や可能性を秘めていても、「ちゃんと形にできていない」なら、残念ながらその場所ではわかりやすい評価は得られないだろう。
でも、自分の中で「変化」を感じられるなら。
なにか確信や希望を見いだせたなら。
それは、一時的な満足感や評価よりも、もっと貴重なものではないだろうか?
決して、「形にできていない段階」のほうが素晴らしい、とは言わないので誤解しないでほしい。
演奏は、そこに「在って」ほしいから。描けていない、構築できていない時点で、十分に味わうことはできない。
しかしもったいないのは、「形になっているもの」と「形になっていないもの」を同じ物差しで比較して、安直な判断を下してしまうことだ。
両者は、そもそも違う場所にいる。
「 "形にする力" が不足している自分」を自覚して改善したいなら、比較することにも意味があるだろう。
足りない部分や、他者に倣うべき部分を謙虚に見つめることも、大切だ。
しかし、自分の「形になっていない部分」と、他人の「(ひとまず現時点で)できあがった形」を比較しても、何の意味もない。
だって、立っている段階が違うのだから。
あくまで、自分の中身を見直して、音楽と曲を見直して、自分が作り上げる理想の「形」を追い求めていくしかないのだ。
わたしは、「形にならない」段階も好きだ。
自分の中だけの音楽。
言葉にできない音楽。
まだ生まれてこない「なにか」。
想像して、つかめないなにかを見つけようとしながら宙を泳ぐように手探りして。
そんな時間は、とても尊い。
だから、ひとの演奏を聴くときも、そこに思いを馳せる。
形は「美」でもある。
しかし、形のない場所にも、ときにきらめくものを感じる。玉石混淆で、たぶんほとんどが石になってしまうが、ときに玉がある。
ひとが演奏するとき、かならずどこかの段階で、「形にする」ことが必要になる。
でも、形にならない段階を、いま以上に大切にすることができたら?
きっと、またちがう「形」ができあがる。
〜おわりに(ちょっと具体的な話)〜
抽象的な散文になりましたが、コンクール等で「まだまとまっていない、けれど光のある演奏」を聴くときに思ったことを文にしました。まだ技術面や成熟度の面で、段階として進んでいないけれど、光をもっているなら。結果や他人と比較しないで、自分の進む道を見つめて着実な学びを深めてほしい。と思ったのです。花の咲くタイミングは人それぞれです。 それと、「形」という言葉が物質的、形骸的というイメージを与えてしまうかもしれませんが、この文での「形」は作品が具現化すること。なので、空間や音色や耳の働き情感やいろんなものを含んでいます。
ここまでお読みいただきありがとうございます!ときどき頂戴するサポートは主に書籍・楽譜の購入・もしくはカフェ時間にありがたく使用させていただいています。もし「とくに役にたったよ」「応援したい!」と思っていただけたらよろしくお願いします。※ご負担のないようにお願いします(^^)