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モカとエスプレッソと私

モカとの出会いは18歳、青森県八戸で

 昭和43年18歳。部隊実習で八戸駐屯地に3か月派遣されたことがあった。東北方面隊直轄の高射特科大隊での実習だった。中学卒業と同時に横須賀の陸上自衛隊少年工科学校に入校し基礎教育を受け、久里浜の通信学校で電気基礎を学び、そして下志津(千葉県)の高射学校入校中の教育の一環として八戸滞在だった。

 八戸は学校ではなく、一般の部隊であり、そこでの隊付実習だ。嬉しいことがあった。それまで学校では外出は土日に限られており、それも外出できるのは総員の 3分の2 と云う人員制限があった。それが八戸では平日でも外出が、平日は 2分の1 の制限はあるものの、許可される。
 同期生で示し合わせ近傍の三八五自動車学校(教習所)に通うことにした。だから私の初めての普通免許は青森県の発行だ。免許証が今のフォーマットに代わるまではそのことが明記されていたのに、少し残念な気がする。

 とにかく八戸滞在中の3か月以内に青森県公安委員会での筆記試験まで終了する必要があり、教習所で一度でも単元を落とすと本免許をもらえなくなる。そんなスケジュールだったので、結構真剣にとりくんだものだ。

 陸上自衛隊八戸駐屯地は八戸飛行場滑走路の北に、そして滑走路の南には海空自衛隊が展開していた。南側は基地で北側の陸自は駐屯地だ。一旦緩急あったとしたら海空自衛隊はそこを後拠として防衛作戦を行うから基地の名が冠せられ、陸はその地を後拠としないため、仮に宿る駐屯の地なのだ。だから駐屯地は国からの予算もけちられる。海空基地の生活環境の良さは、それからもずっと羨ましくは思っていた。

 それでも当時の八戸駐屯地は、普通科(歩兵)連隊、戦車大隊、施設(工兵)大隊、高射大隊、偵察中隊、(陸自の)飛行隊などなど多くの部隊が駐屯していた。
 旧軍では酒保(しゅほ)、陸自では米軍からの流れで PX (Post Exchange)と呼ばれていた、主として民間の委託業者が営む売店などは、隊員の数が大所帯であり、その外出制限もあることから、随分充実していた。

 1700(17時00分)国旗降下で課業が終わったなら、速攻で戦闘服から制服に着替え、市営か民営のバスに飛び乗り教習所に通った。当時はまだ私服での外出は認められておらず、外出は制服の時代だったのだ。それに市営と民営が平行路線を走らせいても利用者が潤沢にいて、利益回収できる時代であったことが分かる。

 モカとの出会いのことを書こうとしている。
 1700から配食される隊員食堂で夕食を食べていては教習車の配車などに後れを取るため、食べずに飛び出ることが多かった。そのため自動車学校から帰隊したときは、その PX に直行して民の委託業者が開いている食堂などで食事することになる。その PX の大きな一角に、やっぱり大きな喫茶店があった。ウエイトレス、当時はまだ女給とも呼んだ、の数人が大車輪で応対し続けるほど客(隊員)は多く回転も早い。それでも殺伐とした隊内で一服の癒やし空間だった。

 PX の食堂でお腹を満たしたあと、あるいは軽食は喫茶店でも出るので、その場合は直接喫茶店に通うことは、この3か月のルーチンになっていた。その喫茶店の名が「モカ」でありモカを提供していた。
 店主はエキゾチックでいて和風の似合う30代ほどの綺麗な女性だったと思う。「思う」と云うのは当然ながら「30代」にかかる。18歳の少年に女性の年齢はよくわからない。ただミス八戸だったことがあるらしい。端整な方であった。

 ここでコーヒーはモカでしょうとの嗜好がすり込まれた。多分。

36年間通った八戸のモカ

 初めての八戸は3か月で、その後は下志津に戻り、また日本全国を転々とした。八戸には陸自のパイロットになってから、主として燃料補給を受けるため度々訪れた。そして時間的に余裕があれば必ず「モカ」に顔を出した。
 最後に訪れたのは確か平成16年54歳のときだったかと思うのだが。であれば36年だ。まだ(失礼)隊内売店に「モカ」があった。営内に居住する隊員数の減少と若者の嗜好の傾向からか店舗の面積は当時と比べ随分小ぶりになってはいたが。まさかママはもういないだろうと思い、でも店の女の子に聞いてみた。まもなく出てくると思いますと。後ろに気配を感じ振り返ったらママさんが店のドアを開けたところだった。
 あのころの隊員さんでパイロットになった人たちは、皆さん八戸に寄るたびに、こうやって顔を出してくれる、いまではそんなことが店を続ける力になっているのよと、ママさん。昔話をしながら「モカ」のモカをママさんから奢ってもらった。モカを飲まないと日を越せないよと話したら、そうよ、コーヒーはモカでなきゃ、とママ。
 そうか、おごってもらったままだった。それ以来お会いしていない。
 
 その夜、駐屯地の北の自衛隊向け繁華街、桔梗野で同期を呼び出し、なじみの店で時間を過ごした。同期二人で同期して「モカ」のママ、年取らないね、と。モカコーヒーには僕の青春が詰まっている。

久米島で出会ったエスプレッソ

 八戸時代から数えるとその20年後、沖縄那覇に2年間勤務した。

 そこで ULP(ウルトラライトプレーン、超軽量動力飛行機)が縁で知り合った人がいる。正にいちゃんと、私の子らは呼んでいた。彼はキットからその機体を何機も組み立て飛ばしてる人だった。
 私が沖縄を卒業したあとしばらくして、正ちゃんは那覇から故郷の久米島に帰った。そんなこともあり久米島マラソンは私の年中行事となったのだが。その久米島で正ちゃんは、写真屋、レンタルDVD、カラオケ店、レンタルバイク等々を営んでいる。店舗の建築だって全て自作の人だ。

 そんな彼の店には喫茶のコーナーもあった。そしてこの店で、驚くほど美味しいエスプレッソをだしてもらったのだった。沖縄の離島でイタリアRANCILIO(ランチリオ)のコーヒーメーカーが据えてある。さらに驚いたのはランチリオが稼働してるのは私の妻のおかげだと正ちゃんは云う。えええええ!

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 なんで久米島にランチリオがあるのか。この大きさなら300万はするだろう。調べたら新品で380万だと。

 喫茶業をはじめるにあたりよいもので客を迎えたい。それが基本的な彼の姿勢なのだが、そこでコーヒーメーカーを探しているとき、ネットで見かけたのがこれ。ある会社の社長が自分と従業員のためにこれをイタリアから直接購入した。それでその会社に取り付けられたのだが、設置した業者はランチリオの知識なく、接続できるところを接続してそれで終わり。
 最初はそれで美味しく飲んでいたようだが、まもなく異音とともに暴走をはじめた由。

 直輸入なので抗議する術もなく、ならば売ってしまえとネットに挙げた。そんなことで、正ちゃんがいわくつきを承知のうえ超安値で購入したらしい。

なんでも自分でやってしまう彼の面目躍如。

 コーヒーメーカの知識もないままに分解し清掃し、構造機能を推測し、不良箇所だと思われるバルブを発注するまでになった。
 この機器の取り扱い代理店に相談すると、相手はイタリアですからね、早くて2ヶ月、遅ければ数年は覚悟してください、とのことだったが、ともかくも発注をかけたと云う。

 発注品の遅延は国外ではごく普通のことのようで、カナダの友人もいつもそんな被害を受けておられる。部品の話しではないが、イタリアに留学した娘なんか、ビザはイタリア入国後現地でもらえと在日本イタリア領事館で云われそのまま出国し、現地ピストイアから役所のあるフィレンツェに何度か行くが、なんだかんだと発行されない。それで娘が世話になっていた受け入れ先のイタリアのお母さん、大きな銀行の頭取の奥さまで毎年日本人を受け入れてくれている、が一緒に娘を連れて行ってくれて、官吏をどやし上げようやく発行されたこともあった。イタリア母曰く、イタリア人はどやし上げないと動かないのよと。母は強し!

 だがランチリオの注文部品、2ヶ月どころか2週間でとどいたと。正ちゃんの話しの展開に、めちゃめちゃ笑ってしまった。ランチリオさん、決めつけてて失礼しました。

 さてその部品を交換してコーヒーを淹れることはとりあえずできるようになったが、湯漏れも異音も止まらない。もう一度、圧力のレギュレーターを探すのだが付いてない。そこで散々探して見つけたのは圧送側の本体ではない床下のポンプ部だった。そのレギュレーターを調整したら直ってしまったと。

 直りはしたが取扱説明書もなく、美味しいコーヒーの入れ方が分からない。正ちゃんはこの難関をどうやって乗り越えたのか。また落語のような話しだった。

 私達家族が那覇を離れてから、たびたび久米島に遊びにおいでと誘われていたのだが、私は忙しくて時間が取れず、妻の単独旅!妻の久米島初滞在。その妻が正ちゃんの喫茶コーナーで、この機械の使い方分からないかと、相談を受けたわけだ。
 妻は使い方は分からないけど、知人にバリスタ(イタリアのバールの給仕人。狭義にはエスプレッソを抽出する職人をさす)がいるので紹介してあげると答えたそう。娘のイタリア留学初期に、妻は娘と一緒に1ヶ月以上向こうに滞在していた。その時期に出会ったらしい。それでその日本人バリスタの名刺を妻は持っていたのだ。そのバリスタは日本に帰ってきており、正ちゃんが電話してみたら、東京まで来てくれたら教えます、とのことだった。
 そこで東京で訓練受けてきたのだが、ここでまたびっくり。妻が知り合ったバリスタは、日本のバリスタコンテストで日本一を受賞していた。
 東京でバリスタ氏に取次ぎを頼んだらそれはできないと云われるなど、おきまりの?一悶着を経て、本人と会うことができ、氏の開いていたバリスタ養成コースに特別編入してもらえたのだった。正ちゃんはその人から直接教えをこうたわけだ。

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 正ちゃんは自分でウルトラライトプレーンを組んで自分で飛ばす無類の飛行機好きだ。喫茶のコーナーの壁一杯に飛行機の本が並んでる。彼のエスプレッソをいただきながら、そんな本を読んだり、大画面で飛行機の映像を眺めたり、そうやって飛行機談義をしていたら、南海の離島のアウトドア時間がなくなってしまうのです。

 上の写真は正しちゃん推薦のEspresso with  steamed Milk カプチーノ!と本棚から取り出した本だ。
 本棚には、私から段ボールに詰めて送り贈呈した本も一角を占めていた。当時は転勤族で本の置き場なく、もらってくれてありがとうと。

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 冒頭の写真だがモカマタリをドリップ中だ。モカマタリをハイローストしてもらい、手回しの豆挽きでミルしてこの写真のようにドリップさせて淹れている。豆挽きにマタリを移すとき、ミルするとき、紙フィルターに移すとき、90℃ほどの湯を注ぐとき、そしてミルされたマタリから炭酸ガスが盛り上がるとき、淹れおえたモカマタリのコーヒーを口に含むとき、その時々が至福の時間なのだ。

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 一方娘はイタリアから帰国した日、大きな旅行バックから携帯のエスプレッソマシンを取り出し、エスプレッソを淹れてくれた。美味しい。

 その娘は今では孫をつれてやってくる。父のモカマタリを目当てに。父は孫を膝にのせ豆挽きを一緒に回すのが、新しい至福にもなっている。

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