これで分かる!Bリーグ誕生🐣

2024-25シーズン開幕までまだ時間があるので、ヒマを持て余した吾輩は千葉ジェッツの過去シーズンをふり返る記事をコツコツ書いている。

 ジェッツの過去をかえりみたとき、

・bjリーグ
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・NBL
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・Bリーグ

という所属リーグ変遷の流れに触れざるを得ないので、「NBL??」とか「Bリーグがどうやって生まれたのか?」という部分の説明が必要になってくる。

Bリーグはとんでもない難産の末に生まれたリーグだ。

Bリーグが生まれる前、日本バスケ協会がFIBA(国際バスケットボール連盟)から無期限資格停止という信じがたい処分を受けたころ、日本のバスケットボール界は閉塞感に満ちていた。

Bリーグ開幕からもうすぐ丸8年になるし、改めてBリーグ誕生までの流れを振り返ることは有意義かもしれないと思い、吾輩なりにまとめてみたのが今回の記事だ。

新シーズンが始まる前の暇つぶしになれば幸いなのだ。

※吾輩は2000年代の日本バスケ界の状況をリアルタイムでは知らない。今回の記事は、千葉ジェッツがNBLに参入表明したあたりから関心を持ち始めて色々と日本バスケ界のことを調べた結果だ。


(1)2000年代前半の国内バスケリーグ


◯日本リーグ(2000年以前)

2000年以前の国内リーグの名称はバスケットボール日本リーグで、100%純粋な実業団リーグだった。

90年代、マイケル・ジョーダンによる2回のNBA3連覇や1992年バルセロナオリンピック以降のドリーム・チームの活躍で、世間でのNBAへの注目度が高まり「日本のバスケもプロ化しては?」という機運が少しずつ高まっていたんだそうだ。


◯JBLスーパーリーグ

そして2001年、将来的なリーグのプロ化を視野に入れ、日本リーグは「JBLスーパーリーグ」にリューアル。ホーム&アウェイゲーム方式が採用されたり、地域密着型のプロチームが参入したりといった動きはあったものの、その後シーズンを重ねても、リーグ及び企業チームのプロ化は進展しなかった。


◯日本リーグ時代のプロチーム

当時、プロチームとして以下3チームが所属していた
・新潟アルビレックス→2002-03シーズンから参入
・福岡レッドファルコンズ→2005-06シーズンから参入するも経営難により同シーズン中にリーグ脱退を表明した悲しいチーム
・埼玉ブロンコス→スーパーリーグの2部リーグに加盟

参入直後から資金繰りに行き詰まっていた福岡を除く新潟と埼玉の2チームが、プロ化推進のために動き出すこととなる。


◯「プロ化」とはなんぞ

後々まで2リーグ対立の深い溝となる「プロ化」とは、リーグと企業チームのプロ化のことであり、具体的には次の3点に集約される。

①チームが興行権を持つこと
JBLスーパーリーグはチームに興行権がなく、チケット販売収益や放映権料はすべてJBL(スーパーリーグの試合を主催する機構)に流れる構造だった。

んなアホなと思うかもしれないが、当時在籍していたのがほとんど企業チームだと考えれば、この状況は理解できる。

宣伝と福利厚生のためにのみチームを持っている企業にとっては、チケット収益なんて発生したら会計上面倒くさいだけなので、興行部分はリーグを運営する機構に丸投げしたいのだ。

一方、プロチームにとってこれはガチの死活問題だ。いくら集客してもチケット収入にならないのだから、主な収入源はスポンサー料ということになる。当然、スポンサー集め優先の事業展開をせざるを得ないので、集客努力のモチベーションは上がらない。

ところがスポンサーの話を持ちかけられた側としては、観客が来ずメディア露出も少ないスポーツ興行に金を出したところで、広告媒体としての価値はほとんどない

結局、チームオーナーとの個人的な知合いだとか、昔バスケやってた中小企業の社長だとかからの半ば寄付めいたスポンサー契約などが多く、苦しい状態を強いられることになってしまったのだ。


②バスケットボール事業の分社化
これは、「バスケットボール興行を主な事業とする会社」としてチームを運営すること、つまり「企業部活」からの脱却を指す。

当時のスーパーリーグ所属チームのほとんどは、企業の宣伝と福利厚生のための予算範囲の中で存在する、紛れもない「部活」だ。部活チームを集めて、JBLという機構がリーグを組んでチケット売ったりしていたというのが、当時のバスケ界の仕組みなのだ。

良くも悪くも予算の範囲の中で活動して自社を宣伝してもらい、いざ経営が苦しくなれば活動をやめられる。企業がチームを保有する意図はそもそもそこにある。

企業側としては、自社の関連企業として分社化する場合、これまでにノウハウのない興行という業態で経営するというリスクは背負いたくない。かといって、チームを切り離して他の企業に売却してしまえば広告塔にならなくなってしまう。

第一、部活として持っていたチームの分社化なり売却などという本来業務と一切関係なく手間もかかることに時間と労力をかける理由などなかったことだろう。

一方のプロチーム側は、「企業の経営状況で活動停止や廃部になるようなチームをいくつも抱えるリーグでは、継続性と成長性を担保できないし、将来的なバスケットボール界の発展につながらない」という主張を展開した。

スポーツ興行は対戦相手がいなければ成立しない。その意味で、他チームは競合他社であり仲間でもある。活動停止や廃部になるチームが増えてリーグというプラットフォームが揺らげば、個々のプロチームが経営をいくら頑張って収益をあげたところで、いずれジリ貧になる。

将来的なスポーツの発展を考えればすべてのチームのプロ化は必須であり、企業の個々の事情に忖度してる場合じゃないでしょというのが、プロ化推進の大義なのだ。

とはいえ、当時のbjリーグで興行が成功していると言い切れるチームは片手に余る程度しかなく、多くのチームはそのシーズンをやりくりするのに精一杯というような懐事情だった。チームによる選手やHCへの給料遅配が取り沙汰されることもあった。

そんなリーグから「将来性」だの「日本バスケットボール界の発展」だのと大層なことをブチあげられてプロ化の意義を熱弁されたところで、「プロ化だかなんだか知らないですけど、選手への給料くらいまともに払えるようになってから言ってもらえます??」というのが、当時の企業チームの本音だったんだろうと思う。


③企業名の排除
企業の名前をチーム名から取り払えるかどうかは、くだらないようでいてかなり大事なことなのだ。

行政と連携し地域から広く支援を受けようとするとき、名前に企業名が入っていると色々なハードルが生まれる。

とくに行政は、スポーツチームと連携してまちの活性化を図りたい立場だが、そのチームが企業名を冠していたりすると税金を投入する先として不適切と、議会やらなにやらで指摘される可能性が高い。

企業名もまた、最後まで折り合いがつかなかった事項のひとつだった。


(2)喧嘩別れからのbjリーグ誕生と2リーグ対立構造のはじまり


◯bjリーグ誕生

シーズンを重ねても具体的なリーグのプロ化が進まない状況に、プロチームである新潟と埼玉(以下、「プロ化推進派」)がしびれを切らすようになる。

2004年1月、日本バスケ協会の承認を得て、プロ化推進派が「プロリーグ設立研究会」を発足。 JBL(スーパーリーグを主催する機構のこと。)に対してプロ化に関する質問を投げかけるも、具体的な回答がなかった。

2004年8月、JBLと日本バスケ協会を待つだけ時間の無駄だと判断したプロ化推進派が、JBLと日本バスケ協会からの脱退と、独立した新たなプロリーグ発足を表明する。こうして生まれたのがbjリーグだ。

bjリーグのロゴ


◯敵意むき出しの日本バスケ協会

bjリーグに対して、日本バスケ協会は徹底的な対立姿勢を見せる。

まず、そもそも協会はプロ化推進派2チームの脱退を認めないという方針を臨時理事会で決定。「あらかじめ規約に定められた脱退理由に該当しないため」という建前だ(のちに、特例としてしぶしぶ脱退を認めることとなる)。

そして、協会は協会で新たなプロリーグを立ち上げようとしたものの、各企業チームの反発を受けてあえなく失敗。
2006年からJBLスーパーリーグ改め「JBL」にリニューアルしたものの、チームが興行権を行使することができるようになった点以外は、スーパーリーグと大差なかった。

協会は加盟チームに「bjリーグと関わるな」という通達を出したり、bjリーグのチーム所属選手を協会登録選手から除外する(=日本代表に選出しないと同義)、2007年には両リーグの交流戦を認めないなど、協会が対立構造を決定的なものにしていった。

この2リーグ対立構造をいつまでも改善できなかったことが、のちのFIBAによる是正勧告を招く大きな要因のひとつとなった。


◯どちらか片方をトップリーグに位置づければよかったのでは?

ところで、「トップリーグを称するリーグ」が2つあるからこそ問題なのだから、JBLかbjリーグのどちらかだけをトップリーグに位置づけてしまえばいいのではという意見もあるだろう。

ここで状況をよりややこしくしていたのが「アマ(JBL)のほうがプロ(bjリーグ)よりも競技レベルが高い」ということだった。

一般的にスポーツではアマよりもプロの方が強いという認識が定着してるし、むしろプロとアマの違いとは競技レベルだという風潮すらある。

ところが当時、競技レベルは明らかにbjリーグよりもJBLのほうが高かった。日本人スター選手も、ほとんどがJBLのチームに所属していた。

理由は単純だ。

いい選手を呼べるほどの金と設備がほとんどのbjチームになかったからだ。

先にも書いたとおりbjチームの多くが経営に苦しんでおり、平均集客数は2000人にすら届かず経営基盤も弱かった。練習場所といえば、中学校の体育館。大分ヒートデビルズや宮崎シャイニングサンズのように、経営難によりbjリーグを脱退するチームもあった。

実際に千葉ジェッツの社長を務めていた島田慎二氏の著書「千葉ジェッツの奇跡」によれば、当時、bjリーグの日本人選手の給料は月収30万円あればかなりいい方だったという。

一方のJBLの企業チームはトヨタや東芝、三菱電機などの大企業が多く、その宣伝広告費の一部としてチームに割く予算もbjチームの経営規模とは比較にならなかった。

有力な選手の立場に立ったとき、どっちのチームの環境でプレイしたいかといえば言うまでもなくJBLのチームだろう。

日本バスケ協会としては「当然、トップリーグとは国内最高の競技レベルのリーグのこと」という立場であり、勝手に独立していったbjリーグを国内トップリーグとして扱う理由がなかった。

一方のbjも、プライドと将来のビジョンを持って独立した経緯から、自分たちこそトップリーグという姿勢は崩さなかった。

こうして、2リーグの間にはブ厚いジェリコの壁ができあがってしまったわけなのだ。


(3)JOC(日本オリンピック委員会)からの資格停止処分 


FIBAが日本バスケ協会に対して出した是正勧告(後述)のひとつが「協会のガバナンス力(統治力)を強化するための運営体制の刷新」だったのだが、この勧告が出される要因のひとつになったエピソードがある。

2006年に日本で開催された世界選手権(のちにワールドカップに改称)から始まった日本バスケ協会のクソムーブだ。


◯アホみたいな大赤字と後始末

この世界選手権で、日本バスケ協会は13億というカニじゃなくても泡吹きそうな赤字を叩き出す。

そして、赤字を補填するための補正予算案を13億のうち半分の6.5億を地方バスケ協会に負担させる前提で評議会に提出し、否決されてしまったのだ。

当初、世界選手権は全試合をすべてさいたまスーパーアリーナで行う予定だったはずが、諸事情により仙台・広島・浜松・北海道の4カ所で予選グループを行い、ファイナルラウンドをさいたまスーパーアリーナで開催する形式に変更された。

これによって経費が膨らんだのだから、各予選会場を所管する地方協会に補填させようという理屈のうえでの予算案だったのだろうが、日本バスケ協会の評議員には地方バスケ協会の役員を兼任する人が多く、「会場手配などを融通した地方協会がなんで赤字補填を押し付けられなきゃいかんのか」と強烈な反発を招いた。


◯人事の混乱

こうして一部の評議員からバチバチに不信感を持たれた日本バスケ協会は、2007年11月にようやく予算が採決されるまで何度も流会(評議員に出席をボイコットされて出席者数が定足数に足りず、評議会として成立しないこと)を繰り返すことになる。

予算が議決に手間取る中で2007アジア選手権の日本開催が一時は危ぶまれたり、協会幹部が背任容疑で刑事告訴されたりJOCから2007年度の強化交付金を打ち切られたりと目も当てられない状況に陥った協会は、失態の責任をとって役員が刷新される際に後任人事を巡って内部で揉めまくるという末期組織の伝統ムーブを繰り出す。

見かねたJOCが介入し、「役員選びは、JOCと日本バスケ協会が話し合って決めるよ」という合意に至ったにもかかわらず、日本バスケ協会がそれを無視して勝手に人事を決定しようとしたとして、日本バスケ協会を無期限の資格停止処分に決定した。

2020年のオリンピック開催地が東京に決まったとき、世界選手権の運営で大コケした日本バスケ協会にそのままの体制で東京オリンピックの競技運営は任せられないとFIBAが考えたのは、この流れを考えればある意味当然の判断だったわけだ。

(4)妥協の産物、NBLの誕生


2008年に一度、FIBAは日本バスケ協会に対して「トップリーグは1つの国に1つにしようや」という要望を出しており、このあたりから、協会のbjリーグに対する態度がやや軟化していく。

2010年にはbjリーグを「公認団体」と位置づけ、協会・JBL・bjリーグの3者により新たなトップリーグ創設に向けて動き出した。

…が、結局出来上がったリーグ案はプロ化とは程遠く、「各チームによる自主興行の義務化」が盛り込まれたという点でしか進歩がなかった。

2011年12月にこの新リーグ参入への呼びかけを行った際、bjリーグ側から参入の意向を示したのは千葉ジェッツだけとなった。

こうして2013-14シーズンからスタートしたのがNBLであり、結局bjリーグとの分裂状態が改善されることはなかった。

NBLのロゴ



(5)FIBAからの改善要求


2020年オリンピックが東京開催で開催される事が2013年9月に決まる。

その3ヶ月後の12月、FIBAから日本に対する改善要求と「2014年10月までに具体的な改善案を示さないとFIBAの会員資格喪失させるで」という宣告を突きつけてきた。

アーリマンかな?

「10カウント後の死が約束された!」


勧告①ナショナルチームの継続的な強化体制をつくれ。

トップリーグからアンダーカテゴリーに至るまで、「日本バスケの仕組みそのものが代表チームの強化につながってない」という視点で、改善要求が示された。

◯2つのトップリーグの分裂解消
ナショナルチームに一番近いカテゴリーであるはずのトップリーグがNBLとbjリーグという2つに分かれてる状態は、代表強化にとって悪影響しかないから改善せよという勧告だ。

日本バスケ協会としては「それぞれのリーグ所属チームと協議をして落としどころを探りながら少しずつ進歩させてきた」という自負はあったのかもしれないが、実際にFIBAが日本バスケ協会の資格停止処分を行った際の記者会見で、当時のパトリック・バウマン事務総長は「我々は移行時期に興味がない。」と切り捨てている。

◯若い世代を巻込んだ代表強化体制の見直し
アンダーカテゴリーの構成・活動が将来の代表強化に繋がっていない」とする視点から生まれた勧告で、具体例として挙げられたのが高校生の主要大会の一つであるインターハイの時期だ。U-17世界選手権の開催時期がほぼ丸かぶりだったためで、U‐17世界選手権という将来のバスケ界を背負う若きプレイヤーたちが目指すべき大会の時期にかぶせて国内大会を行っている点が疑問視された



勧告②日本バスケ協会のガバナンスを改善しろ

FIBAが最も問題視していたのは、個別具体の事項ではなく、その背景にある「日本バスケ協会があちこちの諸事情に振り回されてガバナンス(統治能力)を効かせられず、ナショナルチームの強化と日本バスケの継続的な発展のために必要なことをできてない」という根源的な課題であったため、「協会そのものの体制を見直せ」という要求を突きつけてきた。


(6)マジもんの制裁から生まれたBリーグ


こうしたFIBAからの勧告を受けた日本バスケ協会だったが、FIBAの示した回答期限(2014年10月末)までに具体的な回答を示すことはできなかった。

そして2014年11月27日、日本バスケ協会はFIBAから無期限の資格停止処分を受けた。具体的には、カテゴリーを問わず男女すべての国際大会などFIBAイベントに参加できなくなってしまったのだ。

そのうえでFIBAは改めて勧告の実行期限を2015年6月とし、このラストチャンスで勧告を履行できなければ東京オリンピックの開催国枠としての出場を不可とする旨を示した。

この事態でケツに火がついた日本バスケ協会はJリーグ創設時に手腕を発揮した川淵三郎氏を代表とするタスクフォースを結成し、同氏による強烈なリーダーシップのもと、Bリーグの開幕に漕ぎつけた。

2016年9月22日、Bリーグ開幕戦であるアルバルク東京と琉球ゴールデンキングス戦をテレビ地上波で見て「はぇ〜時代が変わったんだなぁ」と思ったあのときを吾輩は忘れないだろう。

あれから約8年。
今も週末ごとにバスケの試合を楽しめる幸せを吾輩は感謝しているし、パリ五輪での男子日本代表が世界の強豪相手に勝ち負けの試合ができるようにまで成長しているのを見て、この国のバスケが正しい方向に進んでいることを実感している。

10年後もその先も、もっと日本のバスケ(と千葉ジェッツ)が発展していけばいいなと吾輩は切に思う。


まとめ


ほんの片手間記事のつもりだったが、色々調べながら書いてたらものすげえ長くなってしまった。すまん。



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