見出し画像

鬼燻

午後3時。
事務用の机はオニフスベと同じ色だった。
気だるい午後の時間、事務机の島の中ほどで僕は大きく伸びをする。
デスクワークはいつまで経っても慣れない。
机やロッカー、抽斗は限りなく白に近い灰色で、パソコンのモニタとキーボードだけがそこにたらした墨汁のように黒い。
今頃山ではヒヨドリが烏瓜をつつき、山肌の崖沿いにシダが揺れているだろう。
苔の柔らかなソファに僕が座っていると、ノネズミが隣をわざと恭しく通り過ぎるのだ。
しばし目を瞑り、深い深い緑を瞼の裏に浮かべようとする。

「野沢くん、ちょっと」
後方から聞こえたダミ声に振り返ると、課長がクリアファイルに入れられた書類の束を持っていた。
「この書類ね、付箋のところ捺印忘れてるから」
「すみません」
その声色にはうんざりしたような色がある。
またやってしまった。
「あとこれも、今日中に」
「はい───」
僕は紙の束を受け取る。
マタギをやめたのに、こんなに山が恋しくなるとは思わなかった。
僕は一つため息をついて、目の前の書類に立ち向かうことにした。

もう何度目だろう。
私の目の前に聳え立つ草のせいで一向に視界は開けない。
手に持った棒で藪を横に薙ぐが、焼け石に水だ。
もう水はない。
今日中に沢に辿り着かなければ、このまま脱水症状が進むだけだ。
私の胴体ほどの木の幹に体を預け、本を広げた。
今はこの入門者向け登山ガイドブックだけが私の道標だ。
地図をぐるぐる回しながら自分のきた道を考える。おそらくこのまま下り続ければ5キロほどでイヌヤ沢にたどり着く、はず。
空腹と脱水と涙で視界がチカチカしていた。
本当なら今頃旅館に帰って温泉に浸かっていたのに。
それが、それがあんな。
「───るるるるるる───」
全身がびくりと大きく跳ね、心臓が脳に警鐘を鳴らした。
がさり、とはるか向こうの藪が揺れた。
足が震え、歯がガチガチと音を立てる。静かにしなければ見つかる。
私は這うようにまた来た道を戻り始めた。

ぼくの日々のゼロカロリーコーラに使わせていただきます