アメリカ・インディアン博物館
ワシントンDC滞在中の最後に訪れたミュージアムは、国立アメリカ・インディアン博物館 (National Museum of the American Indian)。これもスミソニアン博物館群のひとつ。長いモールの中で端に位置する立地で、メトロの駅からも歩くので、とにかく歩くだけ歩いて到着した。
インディアンへの興味
いまでこそ、私の関心もアジアやヨーロッパに向いている。美術が好きで、歴史も出てくるとやはり歴史のある国に興味が向かう。それは母国日本であり、ヨーロッパであり、一部のイスラーム帝国の国々だ。ところが10代、20代の頃は外国といえばアメリカ合衆国だった。私の米国への興味はまさにアメリカインディアン(※1)から始まった。小学生の時分、TVドラマにもなった児童書「大草原の小さな家」に登場したインディアン(スー族)。昔の話でなく、今もインディアンは存在すると知ったことが子ども心に強烈な印象が残った。インディアンでだれ?どうしてインドでなく北米なの?フランス語を話すインディアンってどういうこと?インターネットなど、もちろんなかった1970~80年代。図書館に行ってアメリカの歴史とくに西部開拓史やインディアンについて読み漁り調べた。(余談だが、中学校の英語の先生が、放課後にインディアンについての英語の雑誌記事を一緒に読んでくれた。このとき、日本語ではなくても英語で得られる情報があるということを知った)。子どもながら、将来はアメリカの歴史を学びたいと思ったりもした。ということもあり、長じてアメリカに初めて来た時にワシントンDCにも立ち寄ることができ、アメリカ・インディアン博物館もすかざす訪れた。1988年3月だったと思う。当時はもっと古くて、しなびた外観のミュージアムだったと記憶している。それが今回訪れたら一見して新しく建て直されていた(2024年3月)。2014年に全面建て替えをして、自然と共存するインディアンの価値観を反映させたつくり、アメリカの歴史や人権問題を前面に出した展示内容に発展していた。
刷新された展示内容とメッセージ性
とくに展示内容は一新。明らかの時代の流れを意識したのだろう。人種問題も山積している米国だが、この30余年の間に黒人出身の大統領も誕生した。米国200年の歴史を語るのに、西部開拓とインディアンを避けては通れない。私が子どもの頃に読んだ本では「白人に土地を追われた可哀そうなインディアン」のメッセージが主流だった。今では「母なる大地で自然と共存するインディアン」「伝統的慣習と知恵を大切にするインディアン」「先祖代々の土地で生きる権利を有するインディアン」が展示メッセージの端々にみられた。インディアンの自然観、死生観はSDG時代の先を行くといわんばかりの描かれ方だった。みながら幾度となく時代の趨勢や歴史観の変遷、変化を感じた。
インディアン博物館では、インディアンと白人(ちなみに展示では白人のことを「ヨーロッパ人」と明記)との間で生じた大きな認識の差異について比較するパネルが展示されていた。二項対立というよりは歴史を理解するための背景事実を示したい意図だろう。たとえば、
Land 土地
インディアンにとって、土地とは彼らの存在すべての礎だった。土地を土台として各部族のアイデンティティ、宗教的慣習、文化が形成された。部族ごとの境界線(テリトリー)は外部からの侵略者を防御するためのものだった。家族ごとに土地の権利が与えられていたが、インディアン社会に土地の所有を証明する証書、所有権、区画調査、制度は存在していなかった。ヨーロッパ人がやってきた初期、インディアンにとって交易相手として、軍事支援や政治同盟の相手としてヨーロッパ人の存在はプラスに働くと考えられた。交易の引き換えとして、インディアンが使っていない土地をヨーロッパ人に譲ったことも初期の頃はあった。
北米にきた初期のヨーロッパ人は、自分の土地を手に入れたがった。ヨーロッパ人にとって土地とはすなわち個人の独立、経済的充足を得る手立てだった。植民地時代、ヨーロッパ人はインディアンの土地所有権はインディアンに帰属することを認識していた。土地の所有権は証書に記載されているものであり、インディアンから購入した土地については書面にされた。それでもなお、土地を所有するのはインディアンである原則に変わりはなかった。
このような比較が、
Leadership リーダーシップ
Language 言語
Agreements 合意
Treaties 条約
Civilization 文明化
と続く。インディアンと白人の間で理解の大きく異なるキーワードを並べたと思われる。これらの言葉の理解の齟齬、差異、そして認識と論理の違いが度々生じ、西部開拓時代の係争の引き金となり様々な対立と悲劇が起きた。
西部開拓の波
米国の西部開拓は1780年頃から始まった。1800年代になると広大な手つかずの(と白人には思われた)土地への入植を求めて、東部にいた白人が西へ西へと馬車で向かう。白人にとっては、西部は入植地や眠っている豊富な資源(金鉱石)を求めて向かうべきフロンティア。一方、そこに代々住み続けてきた先住民のインディアンからすれば、白人は一方的な侵略者であり、自分たちの生活基盤(土地、自然)を脅かす存在になっていった。もちろん白人の移動によりもたらされた交易品の恩恵もあったが、負の影響も多かった。白人の流入によって、本来ならインディアン社会には無縁だった病気や酒類を持ち込まれたとの記録もある。
米国政府と各インディアン部族(首長)の間で結ばれた協定は、いつも米国政府によって反故にされた。インディアンに対して、白人が約束を守ることはなかった。いつしか白人が口にするようになった。
当時、白人がインディアンへ抱いた恐れの念を表した言葉であろう。それだけではない、入植してインディアンの土地を得る白人の行為を正当化する意図もあったと思われる。
それから合衆国軍が大挙してインディアンの村を襲撃したり、部族が抵抗したり、銃でも戦いや闘争が続いた。(あまりに言葉にならない歴史であることと、それなりの調べが必要なのでこの部分は割愛させていただきます)
時代
しかし時代は回る。ベトナム戦争の反省、社会の反戦の空気とも重なったのかもしれない。とかく人権が重要視される米国で、アメリカの歴史を振り返るとき、侵略した先住民に触れないわけにはいかない。1960年代のニクソン政権。インディアンに対して行ってきた米国の歴史を見直す動きが出てきた。
たとえば、インディアンに対して米国政府の行った仕打ちは妥当なのか、白人の作ったインディアンの政策は現在でも有効なのか、などの議論が巻き起った。展示によると、法律が制定されていった(以下は一例)。過去の法律を無効とするものも含まれた点は画期的で、まさにインディアン社会が米国政府に長年、求め続けてきた第一歩だと思う。
1968 Indian Civil Rights Act
1968 Bilingual Education Act
1970 Termination Policy Ends
1972 Indian Education Act
1975 Indian Self-Determination and Education Assistance Act
1978 Indian Child Welfare Act
1978 American Indian Religious Freedom Act
道は続く
人種や性別、国籍を超えた「多様性」が叫ばれ、それを受けて、先住民インディアンの誇りを取り戻すべく、社会的に声を上げ始める研究者やアーティストなどのインディアン。インディアンは居留地だけに住んでいたわけでなく、米国全土に散らばっていた。インディアンの権利及び誇りの回復と当時の法律の修正撤廃に向けて、全米のインディアンの間でうねりが高まっていった。ただ、その道のりはまだ続いていることもまた事実である。
博物館の最後の展示コーナーでは、インディアンの歴史をめぐる今のアメリカの見解を示すビデオが流れていた。クリントン元大統領のスピーチから始まる。
展示の要約というより「しめ」になっている10分ほどのビデオなのだが、スピーチ上手で有名なビル・クリントンと持ってきたのが心憎くも素晴らしい(※2)。映像をみながら、社会が動くってこういうことなのかと思い、ジーンときてしまった。展示がそれなりに広く見足りないこともあったが、何よりこのビデオみたさに、今回の滞在中に2回も足を運んでしまった。この、スミソニアンの端に位置する(たどり着くまでかなり歩く)インディアン博物館に。
来てよかった。本当によかった。
※1 北米インディアンの呼称についてNative American、または Indigenous People と呼ばれていた時代(80年-90年代と記憶)がある。その背景にあるのは、American Indian は白人(コロンブスの?)による誤った呼び方であり、Native Americanが妥当との説明だった。しかし現在、この博物館では一貫して American Indian を使用していた。法律と関係あるのかもしれないが、詳細はわからない。もしご存知の方がいらしたら教えていただけると嬉しいです。
※2 強いて言えば、Maybe this is what your leaders were looking for when they said, の leaders がだれを指しているのが解釈の幅が広すぎて気にもなるが、ここは深追いしないことにしました。