第四章 小説家の方法で、一滴の雨水の思い・歴史を記す

 村上春樹という小説家は、次のような方法で文章を書く。
「しかし僕は手を動かして、実際に文章を書くことを通してしかものを考えることのできないタイプの人間なので(抽象的に観念的に思索することが生来不得意なのだ)、こうして記憶を辿り、過去を眺望し、それを目に見える言葉に、声を出して読める文章に置き換えていく必要がある。」
 何について書くのだろう。
「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と」
 誰にも、一滴の雨水としての思い・歴史があり、それを受け継ぐべき責務がある。しかし、放っておけば、一滴の雨水としての思い・歴史は、膨大な数の雨粒の中に埋もれ、集合的な何か、すなわち、○○世代とか○○時代と一括りに置き換えられてしまう運命にある。小説家は、一滴の雨水としての思い・歴史を忘れてはならないように、小説家の方法で、つまり、抽象的や観念的でなく、目に見える言葉に、声を出して読める文章に置き換えていく。
 私にも、一滴の雨水としての思い・歴史があり、それを受け継ぐべき責務がある。「昭和とは、こうした時代であった」と一括りにされないよう、私は小説家ではないが、また、小説家のようにうまく目に見える言葉に、声を出して読める文章に置き換えてはいけないが、私の一滴の雨水としての思い・歴史の記述を試みる。 
 私の父は農家生まれの3男である。父の兄弟姉妹としては、長女、長男、2男がいる。
 長女のみ父が異なる。父の母は、お婿さんを受け入れた。長女の父とはうまくいかず、別れ、2度目のお婿さんを迎い入れた。長女は、石屋さんに嫁に行った。石屋さんは事業を拡げ、タクシー会社も営んだ。タクシー会社の事業の経営を担えると思い、母は父と結婚した。結婚後、父が単なるタクシーの運転手という立場であることを知り、石屋さんのところを出て、親戚に頼んで、父を自動車販売会社に就職させ、周りが桑畑ばかりの一画に一軒家を建て、住むことになり、私が生まれた。私が、高校生の頃、母と父の長女と和解し、それまで全く付き合いのなかった石屋さんに、初めて行くことになった。
 私が小学校低学年の頃、父の父が亡くなった。身体の調子が悪くなり、農作業をするのに支障が出始めてきて、婿という立場から、父の母に面倒をかけたくないとして、農薬を飲んで、自殺した。
 私が小学校高学年の頃、1か月くらい、父の母が、我が家に滞在したことがあった。私が料理を作り、食べさせてやった。次男の嫁と、一時期、うまくいってなかったからか。あるいは、介護疲れの休養のためであったのか。
 長男は兵役に就いた。終戦の時には生きていたが、シベリア抑留中に亡くなった。2男は、商業高校で学んでおり、成績も良く、会社に内定をもらっていたが、長男が亡くなったため、急遽、農家の跡を継ぐことになった。農作業に不慣れな2男は、農作業がしっかりできる嫁をもらった。長男、2男、長女をもうけた。私が高校生の時、長女から楽しかった高校の京都への修学旅行の話を聞いたのが最後だった。他県へ行き、ホテルの屋上から身を投げて、自殺した。理由はよくわからないが、恋愛関係らしいと聞いた。高校時代、目立たない存在で、ほとんど担任から声を掛けられることのなかった私だが、葬式で欠席した翌日、「大丈夫か」と言われたことだけは憶えている。
 父の兄(2男)は年老いて、病院に入院することになった。「延命治療はしない」と宣言した。お見舞いに行き、私の顔をみると、ちょっと顔が緩んだ表情をした。その数日後、亡くなった。

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