「『降りることは、上がることよりずっとむずかしい』ということだ。より一般化するなら、こういうことになる――結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す」 この文章の「猫を殺し」とは、次のことを言っているのであろうか。 子猫は、自分の勇敢さ、機敏さを自慢するかのように、軽快に松の木を上がっていったが、怖くて下に降りられなくなり、そのまま疲弊し、衰弱して、死んでいった。 また、「人をも殺す」とは、次のことを言っているの
村上春樹という小説家は、次のような方法で文章を書く。 「しかし僕は手を動かして、実際に文章を書くことを通してしかものを考えることのできないタイプの人間なので(抽象的に観念的に思索することが生来不得意なのだ)、こうして記憶を辿り、過去を眺望し、それを目に見える言葉に、声を出して読める文章に置き換えていく必要がある。」 何について書くのだろう。 「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしそ
私は、村上春樹の作品の熱心な読者ではない。一浪して、不本意な大学・学部に在学していたのが、1981年4月から1985年3月である。お金はないが、時間はたっぷりある大学時代。この大学時代に、たぶん、佐々木マキのイラストが表紙の講談社文庫の『風の歌を聴け』を読んだと思われる。運動も苦手で、頼みの勉強の方も、一浪しても、まったく成績が上がらず、人付き合いも良くなく、この点数で入れる大学・学部ということで、入学した大学であった。 浪人時代の鬱々とした気持ちを慰めてくれたのが、小
私は、長女とうまくいっていない。家を出て、5年間ほど、県外の大学に通っている間は、平和であった。地元で就職することになり、長女が家に戻ってきてから、おかしくなってきた。長女のいない5年間、妻もフルタイムで働いており、自然と家事も分業となり、好きな料理はもっぱら自分が行い、妻の分も作っていた。長女が家に戻ってきてから、長女は、自分の気分次第で、妻の分の料理も作る時もあるようになった。自分が食べたい料理は、自分で作るのが一番と、長女が家に戻ってきてからは、自分の分だけ、料理をす
普通の漫画で描かれる風景は、面白いストーリーをわかりやすく説明するためのものでしかない。ストーリーが主で、風景は従である。しかし、つげ義春の漫画は違う。特に『海辺の叙景』などの作品にみられるように、風景がある雰囲気を伝え、最小限の詩的な言葉と一緒になって、読者の心に迫ってくる。ある日本の若い漫画家のTwitterを追っていたら、今度、台湾で展覧会を行うという流れのなかで、偶然にも、高妍(ガオ・イェン)さんのイラスト集と漫画の合本『間隙』を知り、その表紙絵を見て、「つげ義春み