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国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?: 国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」展

西洋美術を展示する美術館で現代アートを展示する…?どうしてそうなったんだ…?この展覧会の存在を知ってそんな疑問を抱いてから数ヶ月、ようやく開催された+自分の体力に余裕ができたので行ってきました!

入口の看板

この展示は、「開館以後の時間を生きるアーティストらが所蔵品によって触発され、未来の芸術をつくってゆける刺激の場になってほしいという想いを託されながらに建った」国立西洋美術館が「「未来の芸術」を産み育てる土壌」として、「「未来の世界が眠る部屋」となってきた」かどうか、「多様なアーティストたちにその問いを投げかけ、作品をつうじて応答していただくもの」として企画されたとあります(https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023revisiting.html より 2024年3月27日時点)。言われてみれば、美術館に行けば色々な作品に出会えますが、その出会いを人生の中で一番生かすことができるのって、私のような見るだけの人ではなく、これから多くの作品を生み出していくであろうアーティストのような気がするんですよね。実際のところはどうなのでしょう?

久々に紙のチケットをもらった気がする

勝手に現代アートだけ展示するのだと思っていたら、会場では国立西洋美術館が所蔵している作品も展示されていました。もちろん、単に「国立西洋美術館だから」置いて並べてあるわけじゃなくて、比較してほしいという意図のもとで、です。内藤礼さんの作品がわかりやすい(けど、写真は撮っていない…)ですね。ただ、どう見ても、国立西洋美術館の所蔵作品と今回展示された現代アートの間に何か似ている点はありません。見えるのはただ影響だけ…いや、これも見えるものではないか

手前にあるのは、竹村京『修復された C.M.の 1916 年の睡蓮』
奥に見えるのが、クロード・モネ『睡蓮、柳の反映』

こうして作品を巡って観ていると、国立西洋美術館には何が「ない」のかを否応でも考えさせられます。あったかもしれない作品、失われた作品、館の方針に合わない作品。館の所蔵する作品を歴史やジャンルなどの枠組みから自由にする装置。順路以外のルート。無味無臭ではない空間。「一般的な」大人以外のひと(これについては「ない」だと言い過ぎになりますが)…。これらは他のミュージアムでも「ない」ことが多いです。ミュージアムは何を集め、誰のために、何のためにあるのでしょう…

少なくとも私にとってはミュージアムはなくてはならないものです。作品を後世に残すために重要とかそういう一般的な意義的なことじゃなくて、癒されついでにいろいろな視点がもらえて嬉しい、という程度のものですが、それでも私は気軽に行けるところにミュージアムがないと、私が私として生きていけない気がするんですよね。面白そうなものを面白そうだと思える感性を、美しいものと美しいと思える感性を失わないようにするために、私は個人的にミュージアムはあって欲しい…もしかすると、そういう個人的な願いの集積がミュージアムの存在意義なのかもしれない、なんて思いました(学術的な領域では絶対書けない感覚的な文章!)

美術館で有名なものを楽しむ以外の楽しみ方をしてみたい!という人におすすめです。個人的には出口近くに「入口」という作品があるのがとても良かった

坂本夏子『入口』
このすぐ右が出口となっていました

もうすぐ新年度、まだまだ仕事は教えてもらうことばかりですが、頑張っていきたいですね


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