東京都現代美術館「翻訳できない わたしの言葉」展
とても気になっていたので、東京都現代美術館の「翻訳できない わたしの言葉」展に行ってきました〜
なぜ気になってしまうのかというと、私は言葉に対する関心があるからです。それは、私の人生において動かし難いほど強固な関心です
私は日本生まれ日本育ちだけど、幼い時から、同じ日本語を使っているはずなのに自分の言葉が相手に届いていない、逆に相手の言葉をうまく受け取ることができない、と感じる瞬間がありました。もちろん自分の言葉の使い方が不適切であったり、自分の持つ言葉が不十分であったりすることが原因であることが多かったけれど、どうしても自分の方に原因が見つからないこともありました。そんな経験を繰り返していくうちに(今でも繰り返しています)、どうにも自分は言葉から離れることができないようだ、と感じるようになりました。そんな私だから、自分の持つ(持っていない)言葉に強い関心のあるアーティストたちの作る作品はどれも魅力的で、そして考えさせられるものでした
例えば、マユンキキ《Itak=as イタカ(シ)》は、言葉というアイデンティティについて(なんという乱暴なまとめ方!)2人が対話している様子を見るという作品ですが、その中に出てきた「その血が流れているからって…でもできないと、私って出来損ないなのかなって…」という言葉に、胸が締め付けられました。本来得られるはずだった言葉を得られない苦しさがあることを初めて知りました。大陸にルーツを持つけれど母語は日本語という友人たちが、自分たちのルーツの言語を学んでいるとき、どんな気持ちだったのだろう?
南雲麻衣《母語の外で旅をする》では、手話と音声言語という「異なる」言葉を自由に行き来しながら会話する姿を見ました。そういえば大学で、日本語と英語(あるいはそれ以外の言語)を自由に使いながら会話する学生の姿を何度も見かけました。そのような彼らの様子を見たときに、私にはない自由を持つ彼らに、少し羨ましさを感じたことも思い出しました。私にとって、母語とそれ以外の言語は行き来できる類のものではないんですよね…母語以外の言語を知ると世界は広がるけれど、それを実際に使うのは別…
新井英夫《からだの声に耳をすます》では、身体の言葉に耳を傾けることに取り組みました。ここでの身体の言葉とは、様々な感覚とか心の中の声とか、そういうものです。水の入った袋をお腹の上に乗せて寝転ぶと、水がお腹の上でゆらゆらと揺れている、その感覚を感じることもできるのだな、そんな感覚もあったな、と再発見することができました
展示の最後のスペースでは、来館者それぞれが「わたしの言葉」について書いて発信するコーナーがあります。ひとつひとつ読んでいったのですが、その中でも中途半端な方言に悩む人の言葉に目が止まりました。なぜなら、私自身も中途半端な方言しか話せないから。同じことで悩んでいる人がいるのだと、励まされました
私は私の内側から溢れる言葉を発信しきれていない、いやそんなことしなくてもいいのかもしれないけれど、誰かに聞いてもらうための言葉として具現化させて、できればその言葉を多くの人に届けたい、そんな気持ちがあります。そして、できればその言葉で食べていきたいという気持ちも、ないとは言いません。今の仕事は楽しいしやりがいもあるけれど、「これじゃない」と思うことも、冷静に思い返せばあります。でも、私のしたいことはお金にならないこと(ボランティアがやること)です。だから、生きていくためにはとりあえず今の仕事を頑張りたいし、叶うならば極めていきたい…でも、もっと年月が経って、もっと仕事が忙しくなって(それは仕事を極めたが故に発生する忙しさでしょう)、考える時間的余裕がなくなると、こういうことをぼんやりと思う時間がなくなっていくんでしょうか。それならば今のうちに、私の言葉を人に届く言葉にするための訓練はやったほうが良いんでしょうか…
とにかく今は、元気に過ごして仕事をしていくこと!寒暖差が激しいこの季節を元気に乗り切りたいです
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