ウロボロス 極道少女吸血鬼譚


1


 吸血鬼に最も有効な武器とは何か。銀だ。吸血鬼は聖なる金属である銀に弱い。仮に銀の延べ棒を額に押し当てたとするなら、吸血鬼の頭は瞬く間に煙を上げながら溶解し、延べ棒はその自重のみでドロドロになった頭蓋を掘り進み、易々と脳髄にまで達するだろう。

 故に吸血鬼同士の闘争においては、互いに銀で加工された武器を用いての戦いがメインとなる。種の存在を脅かす忌々しい金属は、とりわけ領土の支配権を巡って日夜しのぎを削り合う反社会的勢力の吸血鬼たちにとり、己が命を預ける相棒となる。その二面性から、彼らは多かれ少なかれ銀という存在を神聖視していた。伝統を重んじる吸血ヤクザ組織では、銀細工の装飾具や純銀製の日本刀を友好組織や部下に贈答する文化すら根付いているのだ。

「クソッ、こんな所で……死んでたまるかッ!」

 夜半、繁華街の裏路地を息を切らして走るヤクザが一人。神舟会直参の暴力団”反田組”の組長・反田武雄だ。ネオン看板の妖しい光が浮かび並ぶ暗闇のストリートを走りながら、反田は振り返る。吸血鬼の瞳は夜の輪郭を色鮮やかに捉え、通りの先にまだ追手が来ていない事を確認した。彼は足を止め、深く息を吐いた。深呼吸を繰り返し、がなる心臓を鎮める。額の汗をスーツの袖で拭い、内ポケットの煙草を取り出そうとして、反田は舌打ちした。左手は切り落とされたのだった。奴らに。

「……畜生!」

 左手首に付けていた腕時計も無い。買いたてのブランド物だった。積み上げた稼業(シノギ)の結晶が、一夜にして消えた。時計、事務所、部下たちの命すらも、無慈悲に奪われたのだ。反田はズボンのポケットからスマホを取り出し、まだ生死不明の部下に電話をかけた。通じてくれ。トゥルルルル。無機質なコール音と反田の荒い息づかいが不協和音を奏でる。トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル……コール音が途切れ、慣れ親しんだ声が聞こえた。

『おかけになった電話番号は……』「クソが!」

 反田はすぐに別の部下の番号へとかける。死んでたまるか。齢三十九。長きに渡るヤクザの下積み時代を終え、吸血鬼となり財を成した。これからが人生の本番。その筈だったのに。

 反田武雄の幼少期のあだ名は”出来損ない”だった。彼の唯一の取り柄であった強靱な肉体を見初めた森丘組の若頭がヤクザの世界へと勧誘してきたとき、彼は久しく縁の無かった人生に対する希望を感じずにはいられなかった。男を売る家業。地頭にも性格にも家庭にも恵まれない劣等種の自分が、胸を熱くした言葉。

 組でカネの稼ぎ方を教わり、その使い方を知った。酒、女、ギャンブル。数年後、当時の組長と杯を交わし、吸血鬼となった。魔性の血は反田に超人的な力と刺青を授けた。裏社会の色に染まる度、彼は豊かになっていった。それまでの不遇を、失われた少年時代を取り戻すかのように。

『組長(オヤジ)!』「おうツヨシ、生きとったか! 今どこだ」『十文字ビルの裏に。組長、よくぞご無事で……』「今そっちに行く。車用意して待っとけ!」『へい!』

 十文字ビル。ここから近い。反田はスマホをしまい手近なビルに向かってジャンプした。ゆうに2メートルは跳び上がり、その脚力を用いて外壁を蹴り反対側のビルの壁ヘと更に跳ね上がる。それを繰り返し、反田は十秒かからず屋上へと着地した。吸血鬼の身体能力の為せる技だ。地上から驚愕の叫びが聞こえた。一般人(カタギ)に見られたか。反田は気にせず屋上を駆ける。快いビル風が背中を後押しした。馬鹿どもめ、逃げ果せてやる。反田の口元に笑みが戻ってきた。弱者をいたぶる度に心の底から込み上げる、いつもの笑みだった。奴らは俺を仕留め損ねた。生き残った。俺の勝ちだ。

 反田はビルの屋上から屋上へと大きく跳躍した。着地後すぐ勢いをつけ再び跳躍。今度は建物の外壁に取り付けられた細長いパイプに掴まり、それを伝って地上に降り立つ。振り向くと、静まり返った街の通りに低いエンジン音を唸らせる黒塗りの高級車があった。反田は駆け寄り、ドアを開けて後部座席に滑り込んだ。

「俺だツヨシ。出してくれ」「お、組長! 生きてらっしゃったんですね……」「ああ。とりあえず身を潜めにゃならん。山田組の事務所まで頼む」「組長、ダメです」「……あ?」

 反田は訝った。運転席のツヨシを見つめる。ハンドルを握り、前方を見つめる部下の後ろ姿。その首から上が、ごろりと落ちた。

「うっ!?」

 反田はビクりと跳ね上がる。嘘だ。窓ガラス越しに辺りを見回す。奴らが、先回りしていたというのか。

「おや、じ…………死……」「クソッタレェェェ!」

 瞬間、反田の視界は目映い閃光に覆われ、爆音と爆風、ダンプカーの如き衝撃が前方から襲いかかった。リアガラスを突き破り、体が路上に叩き落とされる。激痛に悶えながら、彼はどうにか首を起こして前を見た。血の赤に染まった視界の向こうで、乗っていた極道車が黒煙を上げて炎上しているのが見えた。爆発したのか。

「あがッ、がァ!」

 苦悶の叫びを上げながら、反田はよろよろと立ち上がった。爆ぜ飛んだ皮膚が、肉が、背中に彫り込まれた般若の刺青から注がれる超自然の力によって再生していく。数秒後、彼の体は爆破前と同様の姿に戻っていた……未だ全身に残る痛みと、焼け焦げた衣服、銀の刃に切り裂かれた左手を除いて。

「こんばんは、裏切り者さん」

 燃えさかる極道車を背景に、黒い影が二つ、反田の前に歩み出た。反田は再生を終えた目で凝視し、宵闇に紛れた殺戮者たちの風貌をはっきりと捉えた。女だ。改造シスター服を着た若い女二人が、日本刀を手に悠々と歩み寄って来ていた。血に濡れた白銀の刀身は、車の炎を反射して橙色に輝いている。その切っ先が、真っ直ぐ反田に向けられた。聖なる刃を突きつける黒髪の女の胸元には、十字架を象った純銀製のバッジが付けられていた。バッジには漢字でこう刻印されていた。”光琳会”。

「光琳会……”極道天使”……!」

 聞いたことがあった。反田組の母体、本州最強の極道勢力”神舟会”には叛乱分子の粛正を稼業とする暗殺者集団が存在すると。吸血鬼殺しの吸血鬼。反田の胸中に燻っていた死の予感が、いま燦然と燃えさかり彼を焦がし始めた。汗が噴き出す。反田は咄嗟に膝をつき、アスファルトの地面に額を打ち下ろした。本能の土下座。

「見逃して下さい! わ、私らは確かに神舟会を裏切っとりました。しかしですね、北海道の連中に弱みを握られていまして——」

 反田は弁明を始めた。屈辱や仲間への引け目を心の片隅に押し遣り、ただ生き長らえたい一心で舌を動かした。彼が犯した裏切りとは、神舟会の敵対勢力である北海道ヤクザとの商売。組織の武器を横流しし、反田組の縄張りでの麻薬取引を目こぼしし、対価として多額のカネを得た。禁忌と知りながら北海極道との取引に応じたのは……反田が昔の親分から受けた訓示に従ったに過ぎない。リスクを取れる者こそが真のアウトロー。万全に万全を期し、神舟会にバレないように上手く立ち回った……つもりだった。

「でもこんな……こんな仕打ちはあんまりじゃないですか! 私は組織へのケジメに身を切る覚悟は出来とります。しかし何も、なんの予告も無く突然皆殺しにするなんてあ、余りにも、惨い……!」

 反田は思いつくままに言葉を紡いだ。すべて偽らざる本心から出たものだった。直後、反田は自身の言説にある程度の情状酌量の余地があることに気づいた。そうだ、いくら何でもやり過ぎなのだ。こんな虐殺、本来あってはならないものではないのか。そこを強調し、闇取引で溜め込んだカネをちらつかせれば……

「成程、一理ありますね」

 食いついた! 反田は顔を上げ、柔和な顔をした金髪の少女へ子犬めいた表情を作ってみせた。

「あ、貴女は話が分かる人だ……! どうぞ、何でも欲しいものを仰って下さい。金でも酒でも女でも」「血です」「…………え?」

 ひゅん。風を切り裂く音がして、反田の視界がぐるりと回った。黒髪の女に首を斬り落とされたのだと、彼は遅れて理解した。上下逆さまになった世界で、彼は犬の格好で血の噴水オブジェとなった首無しの胴体を見た。反田の頭は地面に落ち、ごろごろと転がって再び女たちの方を向いた。体と切り離された頭部から、刺青のもたらす異能の力が失われていくのを彼は感じた。死。吸血鬼となってからのこの十数年、脳裏を掠めることすらなかった一文字がいま彼を満たしていた。

(な、何故……俺が……こんな、目、に……)

 薄れゆく意識の中、反田は動かすことも出来なくなった眼球で光琳会の女たちを見ている。金髪のシスター少女が、反田の血で満たされた白金の聖杯を口元に運び、一口仰ぐ。

「さあ、ファディ」

 対面に立つ黒髪の女が差し出された杯を厳かに受け取り、残された血液を呷る。反田はその光景に馴染みがあった。盃だ。親分と子分の間で擬似的な家族関係を結ぶ、極道の宗教的儀礼。二人は、盃を交わしているのだ。

(盃……親父……たす、け…………)

 反田の脳裏にあの日の光景がフラッシュバックした。森丘組の組長と盃を交わしたあの夜。兄貴分たちが見守る中、地元の神社の境内で、時流に合わぬ本格的な儀式を執り行った。「上出来や」辿々しく盃の酒を飲み終えた反田に、組長がかけた言葉……反田の記憶はそこで途切れた。永遠に。



2


 同日同時刻、神奈川県湘南台。港を一望する青天ビル四十階の大部屋に、VRゴーグルを装着した一人の男が立っていた。髭を生やしたオールバックの男は精悍な顔立ちであり、スーツを脱ぎ捨てスラックスとブーツだけの姿になった彼の背中には、鮮やかな和彫の白虎が彫られていた。

 男の名は新島道三。反田組と闇取引を交わした鬼島連合会の若頭にして、"北の人喰い虎"と呼び称される新進気鋭の北海極道である。

「貴様は完全に包囲されている! 抵抗をやめて素直に受け入れるんだ! 死を、直ちに!」

 一面ガラス張りの展望フロアめいた部屋には新島一人だ。橙色に発光する四つのLED灯籠が彼を囲む空間は、傍目には静謐そのもの。だが彼には武装した特殊部隊員たちの姿がVRゴーグルを通して見えていた。北海極道が誇る巨大傀儡企業(メジャー・フロント)、MUSOグループが開発した仮想現実戦闘訓練プログラムだ。敵として設定されたホログラムの特殊部隊員たちは吸血鬼であり、人間離れした身体力を持つ。その数、十人。

 新島は不敵な笑みを浮かべ、彼らの勧告にカンフーの構えで応えた。両手にはバンデージの上から銀細工の手甲を装着し、殺る気十分。新島の手招きを合図に、特殊部隊員が四方八方からにじり寄る。

「多勢に無勢という言葉を教えてやる!」

 部隊長の啖呵を合図に、新島の背後の隊員が銀メッキ警棒を振りかぶる。新島は一瞬早く振り向き、カウンターの銀腕を防具から剥き出しの顔面に叩き込んだ。悲鳴を上げる間も無く絶命する隊員。頭部の爆ぜた死体は水色のパーティクルとなりVR空間から消え去って行く。

 なおも隊員たちの攻勢は続き、タイミングを揃えた多方からの同時攻撃で新島を狙う。新島は身をかがめて回避し、手近な隊員にタックルをかまして突き飛ばした。他の敵から距離を取りつつ、勢いそのまま倒れた隊員にマウントを取り顔面パンチ。一撃死。

「小林ッ!」「コイツ、強いぞ……!」

 表情を引き締め直す隊員たち。だが彼らは一人、また一人と新島の拳を受け瞬殺されていく……気付けば残るは部隊長ただ一人。銀の刺又を低く構える彼と新島の瞳が交錯した。二者の間にマグマめいた緊張感が満ちていく。

 隊長が静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出した。体が弛緩するその瞬間を狙ったかのように新島は踏み込み、隊長に迫った。隊長が刺又で突く。新島は地を這うような前転で潜り込んで回避、流れるように両腕をバネに床から飛び跳ね、隊長の顔面にドロップキックを突き刺した。靴底の銀板が隊長の顔面を焼却する。ゲームセット。新島は舞い散るVR粒子を背景に着地し、カンフーの構えをとって残心した。

「ハイエェーッ!!」

 突如、男の声が響く。新島はガードを固めつつ即座に振り返った。空中を走るようにして彼に飛びかかる、日本刀を持った男。アフリカ系の顔つきをした長身の襲撃者は抜き身の刀を突き出し新島の頸椎を狙った。鋭い刺突を新島は手甲でいなす。襲撃者は二度三度突きを繰り出し、その度に刀と銀腕とが激しい火花を散らした。新島はバックステップで距離を取り、VRゴーグルを外した。

「ストップ、ストップだ!」

 新島は襲撃者……ホログラムではない生身の男に言った。男は刀をクルクルと回してから鞘に納め、新島に向けてニカッと微笑んだ。

「とんだサプライズだな、アリ。今日は私の誕生日だったかな?」

「ボス、ニュースをお持ちしました。良いものと、悪いもの。どちらがお好みで?」

「アリ」

 新島は気安く微笑みながらアリに差し出されたYシャツを受け取り、袖を通した。

「君は知ってるだろう。私はケーキを食べるとき、最後までイチゴを取っておくタイプの人間だと」

「オーケー、では悪いニュースから。つい先刻、反田組がジェノサイドされました」

「ほう」

 新島は大した反応もせずにシャツのボタンを留め続ける。

「気になりませんか?」

「いつかはそうなると思っていたさ。奴らは侠客の名折れだ。仁義もビジネスも解さず、扱いやすいだけが取り柄の、人間未満の三下。死んで当然の者が死んで、どうして驚ける?」

 新島はアリからスーツを受け取り袖を通した。

「奴らのような無能は生まれて来ない方が幸せですらあるのかもしれん。本物の極道に成る素質も機会も無く、生涯搾取され続けたうえ塵屑のように死んでいくのだからな。死に様も、さぞや不細工だったことだろう」

 新島は淡々と言い放ち、部屋の額に飾られた荒ぶる書道を見上げた。”狂い咲き”。彼の座右の銘だ。

「狂おしき生き様の果てに、己が死すら魅せつけてこそ、極道」

 彼は己自身に宣言するように呟いた。アリはそんなボスを満足げな顔をして見つめる。灯籠は新島の大きな背中を照らし、彼の背に宿る魔性の虎が存在感を増す。

「で、良いニュースは?」

「神舟会の会長が死亡しました」

「……確かか?」

「イエス」

 新島はほくそ笑むのを堪えきれなかった。神舟会会長、三國平治の死。その事実は、空座となった会長の椅子を巡り、神舟会内部で権力闘争が起こる可能性を示唆していた。来る会長選に裏から干渉することで、奴らに楔を打ち込むことが出来るかもしれない。本州極道と北海極道の長きに渡る因縁を断ち切るための楔を。新島は思考を巡らしながら、血潮が沸き立つのを感じていた。

 吸血鬼誕生の歴史は、日本の昭和バブル経済期にまで遡る。きっかけは新宿歌舞伎町で古美術商を営む一人のインテリヤクザが偶々平安時代の古文書を手に入れたことだった。歴史に名高い伝説の陰陽師、安倍晴明が書いたと思しきその遺産に記された秘儀を、ヤクザは学術的興味から実践した。儀式は異界から鬼を呼び出し、鬼は血を通じて人間と交わり、人の世に新たな種族を生み出した。吸血鬼である。

 時代は下り、種々の法規制でヒトヤクザが衰退の一途を辿る中、吸血鬼たちはその超越的な力と積み上げた犯罪のノウハウを駆使して影響力を強め続けた。国家権力との癒着、企業の乗っ取り……こうして令和の日本裏社会は歴史の主役をマイノリティたる吸血鬼たちへと譲った。魑魅魍魎同士がしのぎを削り合う、あやかしの戦国時代が訪れたのだ。

「血が疼いてきたな」

「……血、ですか」

「シチリアの血だ。この世で最も気高く獰猛なDNAさ」

 新島は壁面ガラス越しに夜の海を見つめた。煌々たる満月に照らされた水面は、不自然なほどに凪いでいた。俺が嵐を起こしてやる。新島は拳を握りしめ、声なき咆哮を上げた。

 ——翌日、新島お抱えの情報屋から、彼のもとへ知らせが届いた。神舟会幹部に行き渡った通達文書。その内容は”極道総選挙”の開催を知らせるものだったという。



3


「アメリカ大陸の実在を信じますか?」

 東京都内某所。昼下がり。新興宗教団体"まほらの家"本部会館にある一室は、彼女のアトリエだった。十畳ほどの広さの部屋には赤絨毯が敷かれ、小綺麗な洋式の家具と飾りが最低限の威厳を保てるように並んでいる。

 それらの調和を乱すように設置されているのは作業机に載せられたデスクトップPCと、32インチの大型液晶ペンタブレットだ。その機材の持ち主、司祭めいた黒装束を着こなす彼女——十鳥・マリア・継子は美しいブロンドの髪を指で弄びながらファディに問うた。

「アメリカの、実在? どういう意味でしょうか」

 辰巳鏡月——洗礼名をファディ——は小首を傾げて尋ねた。問いを投げかけつつも、彼女はマリアの言葉の意味するところを何となく理解していた。

 吸血鬼は、海を渡ると発狂死する。未だその原理は明らかにされてはいない。定説では、吸血鬼独自の感覚器官が、海の底に住まう”深きものども”の冒涜的な囁き声を捉えてしまうのだという。そんな与太話を最初に考えついた吸血鬼は余程のコズミックホラー・フリークだったのだろうと、ファディは微笑ましく思っていた。だが、そのようなオカルトが罷り通る程に吸血鬼の背負う弱点は不条理に受け止められ、種族共通の畏怖対象になっているということも疑いようのない事実だった。

 また、恐れは信仰を生んだ。銀への脆弱性は、翻って銀への神聖視を生んだ。海への恐れも同様である。海底に潜む超越的生命体という偶像。そして絶対にたどり着くことの叶わぬ海の向こうの世界への憧憬・郷愁・理想化。マリアの問いのニュアンスも、吸血鬼特有の理想郷信仰に属するものだろうと、ファディは直感したのだ。

「先生は人間だった頃、海外に行ったことがありますか?」 

 マリアが再びファディに問うた。彼女は”まほらの家”の教祖であり、僅か十六歳という若さで神舟会系暗殺組織”光琳会”の会長を務める、ファディの”親”だ。新興宗教の経営を表の稼業(シノギ)とする彼女は、公務の傍らを塗い、こうしてファディとの交流の時間を設けている。一方のファディはつい先日、反田組を標的にした”聖杯の儀”によってマリアと盃を酌み交わしたことにより、光琳会の正式なメンバーとして迎え入れられたばかりだった。

 だから、マリアに”先生”と呼ばれることが、ファディには不思議だった。年齢では自分が四つ上だが、教祖兼会長と新入りシスター兼構成員では格が違うのだから。ファディはそう感じていた。

「そうですね、十歳まではニューヨークに居たので」

「本当!?」

 マリアは顔を綻ばせ、ファディに駆け寄った。修道服の裾を掴み、PCのディスプレイ前へとファディを連れて行く。

「じゃあ、この絵を見てくださいませんか」

 マリアは手慣れたマウス操作でフォルダを開き、その中に保存された画像ファイルを展開した。彼女は映されたイラストをフルスクリーン化し、期待と不安の入り交じった顔でファディの顔を見つめる。イラストを一目見て、ファディはすぐに理解した。細くメリハリの効いた現代的な線画と淡い色彩・柔らかな筆致で描かれた空想のメガロシティ。マリアの絵だ。ファディが彼女の絵を見るのはこれで三度目だったが、それでも一目で分かる程に、彼女の絵柄は既に確立されていた。

「凄い。SF映画みたいですね。確か、フィフス・エレメントだったかしら……」

「これ、ニューヨークなんです」

「ニューヨ…………え?」

 ファディは一瞬呆けた後、再び絵画世界に目を凝らした。青みがかった高層ビルの群れ。壁面はほぼほぼ半透明な材質で出来ており、青空の先から降り注ぐ太陽の光を強く照り返している。絵の舞台は地上から離れた遙か上空であることが、屋根だけが画面に描かれた遠景の家々という描写から読み取れるが、空というシチュエーションに新鮮なギャップを与えているのが、画面奥から点々と連なり鑑賞者へと迫るクルマだ。赤、青、黄の三色を中心にカラーリングされた飛行四輪車たちはいずれも躍動感に溢れており、ファディの心を浮き立たせた。一際巨大なタワーの広告板からはマイケル・ジョーダンめいた人物がシティ上空にホログラム投影されており、バスケットボールを片手にレイアップシュートを今にも放たんとしている。近未来的な空想世界を弾けるようなダイナミックさで描き出すマリアの作品は、観る度に自分の冷めた心を魅了し沸き立たせてくれる。ファディはそう思った。

「ニューヨークでしたか」

「ニューヨークと言うか、心の中のニューヨークのイメージと言うか。私、吸血鬼ですから、海の向こうを空想の世界にしがちでして……」

 マリアは地面に目を落とし、もじもじしながら照れ笑いを浮かべた。

「でも、やっぱり先生は何でも知ってるのね。私、絵を描くときにあの映画を参考にしたもの」

 マリアが潤んだ瞳をファディに向けた。その目から絶大な、与り知らぬ信頼を感じてファディは困惑した。何故だ。何故この少女は私に入れ込むのだろう。

(……けれど、私にとって都合がいいのは事実)

 ファディはマリアに微笑み返し、率直な絵の感想を言語化し適宜伝えていった。自身の一言一句に聴き入り、その度に愛くるしい笑みを浮かべて喜ぶ、義理の”親”。そう、親分だ。ファディは知っている。司祭服に覆われた少女の素肌に、水蛭子の刺青が確かに刻まれていることを。

 ファディは少女に対して好意を持ちすぎないよう改めて肝に銘じた。マリアは油断ならぬ侠客であり、彼女を欺くのが自らの役目。氏名や経歴、容姿。それら全てが捏造された架空の人間。神舟会三大派閥が内の一つ”九条派”から光琳会に潜入すべく遣わされた諜報員。それが私なのだから。

「あら、何かしら」

 バサ、バサという音がして、マリアが窓の外に目を向けた。ファディも彼女の目線を追う。春の日和に翼をはためかせて飛来した音の正体をファディは観た。蝙蝠だった。よく見ると格式張った手紙を短い二本の足で運んでおり、マリアの手元にそれを放り落とすと、蝙蝠はそそくさと飛び去っていった。伝書蝙蝠。そんな趣だった。

「これは……!」

 手紙を読んだマリアが強ばった声を漏らした。その声音に侠客としての威厳が備わっていたのを、ファディは聞き逃さなかった。緊急事態か。ここで存在感を示せば、今後の諜報活動に有益か。考えながらマリアの様子を窺うファディ。マリアは凜とした親分の顔つきになり、ファディに告げた。

「……会長が身罷られました。これは、”極道総選挙”の案内です」

【続く】

お読みいただき有難うございました。 サポートは記事にて返し候。頂ければめっちゃ嬉し候。