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【第1章】私は立教大学を卒業した22歳女子で、左官職人見習い

みなさん、お元気ですか〜〜
韓国に春は来てますか?大学の履修は組めましたか?就活はうまくいってますか?

ということで、このnoteは0章から2章にかけて書いていくもので、いつも心配してくれる友人に向けて近況報告を兼ねて書いています。なので、友人のみなさんも、これから友人になれたら嬉しい、初めましてのみなさんもそんな距離感で読んでくれれば嬉しいです。

前回第0章は、大卒が左官職人になるってそんなにおかしいんですかという、もやもやを発散した文章に終わりましたね

▼まだ読んでいない方はこちらからぜひ〜〜

今回のnoteでは、よく聞かれる
「なんで、左官?」について書いていこうと思います。

努力信仰

大学1年生の夏頃、NPOの営業担当として1時間に10件のテレアポを消化していた私は生産性を上げて結果を出すことに夢中で、それが人の価値だとすら思い込んでいました。私は過去の経験から自分の努力で成し得たものには自信を持っているけれど、自分というものには全く自信が持てず、必死に身を削って取り組まないと、結果が出なかった時に休んだ自分を責めてしまうような気がして、休むことを悪だと思うようになっていました。

私が大学2年生になる頃、コロナウイルスが日本のニュースでも報道されるようになり、日常が少しずつ変化していきました。大学の授業もNPOの活動も、全てリモートに切り替わりました。

鬱になりました

リモートに切り替わったことで移動時間などが削られ、睡眠と食事の時間以外は、全て仕事ができると意気込み、期限に間に合わなそうなら睡眠時間を削り、休むことを忘れ、没頭していました。
そんな毎日は楽しかったけれど、次第に朝は起きれなくなり、パソコンの前に座ってもぼーっとして集中することができず、電車を乗り過ごすことが増えてきました。ADHDという発達障害の特徴に似ていたこともあり、ADHDかな〜とメンタルクリニックに行ったところ、まさかの鬱だと診断をされました。(薬を飲むとめちゃくちゃ精神落ち着くので、すぐに病院に行くことをおすすめします!)(ADHDの検査はして、っぽいね〜と曖昧なことを言われ、面倒くさくなって病院に行くことを辞めてしまったので結局分かりません)

精神的にやられている時に書いてたnoteがこれ。限界すぎて玄海丸が出港しちゃってます。とても恥ずかしいけど、本当に限界だった。

無駄だと思っていたものに救われていた

鬱状態になり、なぜこんなにも苦しいのか考えるようになりました。コロナ前のことを思い返してみれば、学校の帰り道に友達と話したり、電車に乗る時間がありました。それは仕事の効率から見ると時間の無駄だったかもしれません。でも、そんな無駄に見える時間に救われていたことが分かりました。道端に咲いている花を見て、季節を感じること。そして、友達と笑い合うということで心がこんなにも動き、その感情の動きから生きている実感を抱くということに初めて気づきました。

鬱になって人間は想像しているよりもずっと弱い存在だと知りました。感情に支配されて動けなくなってしまったり、非合理的な判断をしてしまったり、人の手は大量生産には向いておらず、機械には起きないようなミスをしてしまいます。でも、それが人間らしさだと思ったのです。数字を追いかけて、完璧に、効率的に、合理的に生きることは時として苦しいものです。そんな「できる人」が優秀だと言われるかもしれません。でも、人間は弱さを抱えているからこそ生み出せるものがあり、そこに豊かさがあるのではないかと考えるようになりました。その辺の時期から「不完全さ/弱さ/無駄/偶発性/身体」といった現代では劣位に置かれてしまいそうなキーワードに関心を持つことになります。

物質的豊かさから、精神的豊かさへ

ちょうどその頃、Twitterで「物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを追求する時代だ」「文明化ではなく、”文化”する」という主張を見かけることが多くありました。その時、そうそう!私が大事にしたいのは精神的豊かさ!と自分の思考を言語化してくれたことを覚えています。

高度経済成長下、大量生産大量消費が叫ばれ、強くて太い矢印が横たわった時代です。良い大学に行き、良い会社に入り、会社人間と呼ばれながらでも働きまくり、マイホームを買うことが一種のステータスのようなこともあったでしょう。そこから時代は変わり、物質的な豊かさが行き渡った社会では、物が売れず、働けば生活が豊かになるような単純な比例式は成り立ちません。物質的に豊かになることを目指し、効率的に働くことを目指していても幸せになることは難しいです、と。私が抱えていたモヤモヤが今の社会にも繋がる部分があることを知りました。この社会を強者を目指させる社会だとするなら、私は弱者のまま尊重される社会を作りたいと考えるようになりました。

大学でいちばん大好きな授業

大学3年生になった私はみんなが就活をする中、ガクチカって何?と友達に聞く程、就活に手をつけていませんでした。この頃は、資本主義という仕組みがこの強者を目指させ、弱者を排斥するような社会を作り出していると考えはじめ、その歯車の一部に輩出されるような就活が嫌で嫌で仕方ありませんでした。その頃、美学という授業で出会った鞍田先生の講義内容が私の目指す世界や課題感にぴったりとハマり、授業中にもZoomのチャットで自分の考えを伝えまくるような、本当に大好きな授業でした。講義の中ではローカルスタンダードや、センスオブノイズといった考えを教えてくれて、今の考えの根底を作ってくれました。そして、講義が好きすぎるあまりその教授の研究室に行ってみたいと考えるようになり、大学院の卒業生にお話を伺いに行ったり、教授が担当する他大の授業に潜りに行ったり、紹介される書籍を読み込んだりと大学院でなんのテーマで研究するかを考えていました。でも、実際に研究したいことが明確になる前に、院試の時期が迫ってしまいました。結局、生半可な気持ちで進学しても、モラトリアムになってしまいかねないと結論づけ、大学院進学をするとしたら社会に出て、より課題感や興味がクリアになってからにしようと決めました。鞍田先生がもし、もしも読んでくれているとしたら、この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました!

土・水・光、左官の出会い

時は流れて、大学4年生。勧められた説明会に行ってみるも、全く興味を持てず、だからと言って焦ることもせずに日々NPOの活動に没頭していました。そんなある日曜日、家族で車に乗って昼食を食べに行く途中、父親が「左官がさ〜、」と話していました。親が建築関係の仕事を務めていることから、昔から左官というワードは聞く機会があり、鏝で壁を塗ることって楽しそうだなと思っていました。それから家に帰って左官について調べ、職人さんが壁を塗る動画をずっと見ていました。魔法がかかっているかのように綺麗にならされていく姿は本当にかっこいいんです。

左官だけでなく職人のものづくりは、弱さ、繊細さから生まれる美しさを体現した世界だと言えます。良いものを作るために五感を使い、機械では再現できないような緻密な作業をしていきます。利益を上げるために生産的なものを生み出すのではなく、良いものを生み出すためにとことん時間を費やします。職人さんが作ったものには、人が感じられます。凹凸があったり、にじみがあったりと機械生産ではB級品と扱われるかもしれませんが、職人が作る一点物からは人の温もりを感じられます。それは丁寧に作られているものだからこそ、大切に扱おうとし生活が丁寧になっていく。作り手も、使い手も精神的に豊かな世界観を体現しています。自分の思想にマッチしていたこともあり、えーーこれかも、んんんーーー職人になりたい!!!!と思うようになりました。

左官を調べる中で、どうせ修行するなら一番腕の良い人の元で働きたいと見つけた人が岐阜を拠点とする左官職人でした。土のソムリエと呼ばれ、壁に合う土を自ら採集し、練り上げて壁を塗っていきます。現代では山に土を採集している職人はこの方くらいで、多くがモルタルといった材料を薄塗りで仕上げるケースが多いんです。それでは壁を壊しても自然に戻ることができませんが、土を原料としている壁は自然を循環していきます。自然と人の関係を作り上げることが、弱さを尊重する社会に繋がると信じていた側面もあり、さらに惹かれていきました。

特別展覧会『土に降る』より

将来15年間の人生設計

35歳までに独立して会社を建てることを目標に左官仕上げのスキルを磨くことを目標にしていました。

独立したらやりたかったこと

①職人さんの後継者が増えるように、誰でも働きやすいように変えること
②若者の身近な存在になるために、現代のニーズを掛け合わせること

①誰でも働きやすい業界に変えること
平成27年の国土交通省の調査によると建設業界における女性比率は、およそ4%程度です。育休後の復職率が半数であったり、現場に女性用のトイレや更衣室がないことなど働きづらさが残っていることもあります。その反面、産休・育休制度を整えている会社が8割以上であったり、ジェンダーレスの作業着が作られるなど、働きやすいように変わってきている側面も多くあります。だから、制度として出来ていない部分は変えること、そして変化した仕組みがあることを社会に向けて発信することが必要だと思っていたし、私が女性職人のロールモデルになれたらいいなとも思っていました。

②現代のニーズとかけ合わせること
私の場合は、身近に左官があったから知ることができましたが、左官という存在を知らない人は多くいると思います。日本には伝統的な技術があるのに知らないことで選べないのはもったいないと思っています。だから、より身近なプロダクトの制作や、kawaii×左官などこれまで遠く離れていた点と点を繋いで、より多くの人に知ってもらいたいんです。

岐阜の親方に会いに行くことが決まった

そんなこんなで、岐阜で10年間修行するために弟子希望の旨を連絡をしました。しかし残念ながら返信がきませんでした。。当時の募集条件(30歳以下の大卒男子)(なんで男子だけなんですか!とは思っているけれど)に外れていたからかと岐阜の道は一旦諦めることにしました。スキルを磨けば取り合ってくれるかもしれないと考え、とにかく早く修行しようと東京の左官屋さんで内定をいただきました。

しかし、心残りがあったこともあり、年明けにダメ元で連絡をしてみました。そしたら、まさかの返信がありました。

◯月◯日に岐阜の飛騨高山に来れますか?

もちろんです、と二つ返事で高山に行くことを決めました。

次回予告

思ったより長くなってしまいました。140字限界時代に、どれだけの人が全文を読んでくれるのか分からないけれど、もし読んでくれた人がいるなら、全部じゃなくて少し飛ばしてここまできたのなら、あなたの集中力と読もうと向き合ってくれたその姿勢にありがとうと言いたいです。

ここまで、左官職人になりたいと思った理由をだらだらと頭の整理をしながら書き連ねてきました。論理の飛躍や分かりづらい部分があれば教えてくれると嬉しいです、、、あんまり綺麗にまとまっている気がしてないので。

次回は意を決して岐阜に行った結果として、どう考えが変わったのか、について書こうかな〜と思います。なるべく簡潔にお伝えしたいけれど、長くなってしまったらごめんなさい。読んでくれて本当にありがとうございました!

また、会えたら嬉しいです〜

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