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誤読のフランク(改訂版) 第7回 裕福な男と美しい女性(RFA-08)(RFA-09)

En route from New York to Washington, Club Car(RFA-08)
ニューヨークからワシントンの間 クラブ カー

新しいシークエンス(のように思える)。というか、最初の導入が終わり、タイトルバックの映像がそのまま本編につながる映画のような始まり。

車が止まれるダイナーかと思っていろいろ探してみたが、考えて見れば多分列車の中の食堂だろう。背景の天井の左右の狭さがそれを物語っていると思う。
ちなみにこの一連の記事を書くために時々、調べ物をするが、調べることは、その写真がどう成立したか、ロバートフランクがどのように撮影したかという点以外であって、社会的な事項の事実確認だけにしている。

誤読の楽しみや膨らみこそが、あらゆる鑑賞物の醍醐味だからだ。正解を常に探し求める必要はない。日本のくだらない国語のテストのように、3択で答えが用意されているものでは無い。むしろ事実的な記録は誤読をしてゆくためには邪魔になることが多い。

なので、ロバートフランク個人の動きに関しては基本的にいま自分が知っていること以外の情報は積極的には入れたくないと思っている。その代わり想像をする。誤読をする。誤読と妄想をする。その方が楽しいからだ。
デタラメだから論文の引用には使わないでおくれ。

で、僕は多分、これは列車のレストランだろうと思っている。丸いバーカウンターだろうか、背景のランプが豪華だ。禿頭の男に対峙する2人の男性。何か真剣に話し合っている。商談か、悪巧みか。
この時代列車での移動がアップグレードした。食堂車で立派な食事ができるようになった。
調べてみると車での移動時のレストランも次々と出てきた。朝鮮戦争はあったけど、一方で飽食の時代も始まり、新たなライフスタイルが生まれてきたのだった。

強いアメリカが、アメリカ人の潜在意識に根付いていると考えると、この写真はそのアメリカを動かしている、ある種の強さの象徴的なキャラクター、禿頭の威厳のありそうなやり手の強い男。それを取り巻く口上手な若いビジネスマンたち。旅の途中でもビジネスの話をしている。
つまり、そのアグレッシブさが、アメリカの力強さの1つとなっている。とか。

群衆と軍隊から離れて、普通の生活(上級から中間層)の見ている世界なのか、アメリカを象徴とするライフスタイルの断片に入ったシークエンスとか。先程までのシークエンスから軽く飛翔して、散漫さを感じられる写真で、どう扱うことになっても、意味が生まれてくるように思える。あえていうなら意味を持たすことは簡単だ。むしろ、ここは意味を持たない写真を、軽く置いたと考えて見るのもアリかもしれない。

次だ。

Movie premiere - Hollywood(RFA-09)
ムービーのプレミア上映会

着飾った女性が映画を見に来る。プレミア上映会は日本でも(猿真似た)セレブが集まり、華やかさ。豪華さを競い合う場所としてある種の価値を持っている。
男も女も見るだけなら綺麗な女は好きだ。敵対してこない限り、攻撃してこない限り、嫉妬させない限り、とカッコ付きの条件だが。

この写真、ロバートフランクでもこんな写真あったんだ、なんて思ってしまうような、まるでファッション写真みたいな写真だと、最初に思ってしまった。
でも気になるのは背景のレリーフだったりする。背景のレリーフが美しい稜線だなとか、なんで右を見てるのだろうとか見ていると、どうやら右側も、レリーフが続いていて、ツヤツヤのあまり、鏡になっているみたい。鏡っぽい? 違うか。車? よく分からないけど、豪奢だ。

古い映画のプレミア試写会などを調べてみると、映画館の周りにはごった返す人の山。今東京で考える映画の試写会に参加する人の比ではない。ひとつひとつの映画にかける期待は今の何倍だっただろうか。そんな中に試写会に参加することは、誇らしい事だっただろう。アメリカの社会の中では映画のワールドプレミアに参加することが出来る確率はどのぐらいだろうか?
雑誌でハガキを送って抽選ってのは、まあ、この当時にはそんなにないだろう。

あ、そうか。いままでと同じ切り口で見てみると、彼女が見ているのは自分自身かも知れない。美しさと若さ(時には知性)が評価されて、その場にたつ。そして、その女優(女優の卵)をアメリカ人、そして我々が憧れた顔して見ている。

先日、面白いことを聞いた。
友人も聞いた話だけど、アンディ・ウォーホルが描いたのは、人々が見ているものを描いたからポップカルチャーを牽引したという話。
ウォーホルはこれまで作者が見ているものを描いたのがアートだった世界に対して、一般人が見ていたり憧れたものをとりあげたため、見る/見られるの位置を逆転することによって、アートというものを転換さしめることができたという指摘。

この指摘はこのロバートフランクの写真にも当てはまるだろう。今まで見てきた中で、フランクは、被写体が見ているもの、そのものを撮影せずに、被写体の横顔だったり、見ている様子を写しているように思える。

つまり、この写真でいえば、女性(もしくはこの女優らしい彼女自身)を撮っているが、その女性は我々が見ることが出来る主題ではなく、画面の外の何かを見ている。ことによると、彼女は彼女自身を見ている(自意識の牢獄)という入れ子構造になるかも知れないし、彼女自身も、さらに何かを憧れて見ているかも知れないという構図。そしてさらに、その女性を「アメリカ人」や、我々が憧れの目で見ているという構図。

前のレストラン写真でいえば、真ん中の裕福そうな男が見ている2人の男達は背面しか見えない。
我々は裕福な男が見ている風景は見ることが出来ない。
我々の視線は前の写真の続きで奥のライトの白に引き寄せられ、そこから真ん中の男、2人の背中と動く。でも、主題は真ん中の男が見ている風景なのではないか。男達の見えているものはなんだろう。

この視線の入れ子構造と視線の動きがこの新しいシークエンスの通奏低音として始まる。


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