誤読のフランク(改訂版) 第4回 演説(RFA-03)
Political Rally - Chicago (RFA-03)
ポリティカルラリーと題されたこの写真。壇上に上がって演説をしてるものと見える。見ようによっては市ヶ谷の自衛隊で割腹自殺した三島みたいな感じにも見える。それは三島の映像を知ってるからで、知らなければ、突然現れた縦構図に少し驚くところだ。
もちろんこの場合も、同じように人々に意見を言う時に壇上に上がって何かを訴えかけるということで、演説者を撮ろうとした時に、撮影者は下から見上げているので、構図は画面上方につれ、すぼまり、小さく見える。
この画面、今までの2ページには無かった要素、正面からの顔という要素が印象的だ。胸に掲げた写真が誰だか今となってはよく分からないのだが、なんか意味ありそうだ。
顔だ顔。あと「〜ver」って見える。ポリティカルって調べたら、あ、これこれ。と思って、あった。
たぶんこれ。写真もこんな感じの写真が使われてるのではないか。誰よ。エステス・キーフォーヴァー。
Kefauver、1956年アメリカ合衆国大統領選挙、民主党の副大統領候補 ですね。対立候補はニクソンで、57.4% 対 42%でニクソンに破れている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC
あ、そうか。大統領選。大統領選挙。これもアメリカらしい光景だなと思う訳で。まあ、いまはトランプ大統領三年目(2018年)。トランプが当選した時もその前のオバマの時も盛り上がったな。
なぜこの写真がここにあるのかってのは置いておいて、構図において印象を残すのは垂直のラインに沿って3つの顔が並んでいること。そして、見上げていることによって、門のレリーフの顔が一番大きく、この写真を見る人間を見下ろしているように見えることだろう。
レリーフの顔の周りの装飾が、あたかも両手を広げているかのようにも見えて、それはそれで面白いのだけど、縦構図ながらいままでいくつかでてきたイメージのまとめみたいな感じもあり気がする。
ここまで見た写真、奥行きや基本的になく、背後に壁もしくは空白といった平板な画面の前に人物が立っている、そう言ったシークエンスが何枚か続いていた。
そのおかげでずっと留まった不穏な感情が、どこにもたどり着かないでいるとように見えるし、この写真に置いて叫ぶという表現があることによって一種の感情の爆発が見られること。閲覧者にとって一息入れられるようなテンションの抜けも感じられるタイミングかも知れない。
それはこの写真集の冒頭シークエンスも終わりなのかも。オープニングのシークエンスの終わり。感情の爆発。
そして、今までと同じくと共通のものは近くで区切られた空間、ここでは背景の窓ガラスそして、その空間が平面的なもの、例えば壁もしくはバスのボディ。繰り返しの、モチーフはこの画面にも用いられていて、一つ前の長老たち(RFA-02)の手前側にある細い柵(手すり)がこの画面では石で作られた屋根に連続していて印象が繰り返されている。
そして叫びの表現。全体的に静かな雰囲気の多い写真集の中で、直接的な表情でもある。
見る、見られるの関係からいえば、これまでの写真は撮影された人が見ているものははっきりと示されていない。被写体が見ているものよりも、何かを見ていることが撮影されている。
と、書いてて、ふと今気が付いたのですが、その意味で考えてみると、もしかすると叫びの表現ではないのかも。今までの説明が逆転するのだけど、この写真を見た時、僕はあまりに三島の市ヶ谷のイメージに引っ張られ過ぎているのかもしれないと気がついた。
これは意見を言う側ではなく、デモや公聴会などの参加者かもしれないと考えてみると、また違った見方ができるような気がしてきた。訴えるのでなく、賛同や共感の仕草なのかも。いるじゃん。大規模なデモの時に高いところ登りたがるヤツ。
最初の写真から引き続くどこか不穏な雰囲気を引き受けているのが、レリーフの顔。政治的なある種の賛同者が勢い余って屋根に登って大きな身振りで賛同している様子ととると、問いは彼らが見ているもの、それ自体になってゆくのでははないか?と思ったり。描かれているものは、写し撮られているものは、民衆の出来事、でしょうか。僕らは見ているのか見られているのか。結実すると思ってた一連の流れが続くことになります。あれれ?
市ヶ谷三島
https://matome.naver.jp/odai/2140801138370564001
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