宗教の代わりに何をなすべきか?No.11 なぜ題目なんかにすがるのか?

「すがる」と書けば、きっと色をなして反論する宗派の人々がいるでしょう。「すがる」のような他力本願ではない、とか、「自分の仏性に目覚めるのだ」とか、何とか。
しかし、美辞麗句は要らないんです。そんな「仏性に見ざめた」立派な人なんか、ついぞ見たことが無いというのが、現実です。それどころか、権力と票の亡者となって、日夜仮想敵の党派と争いに明け暮れているのが現実。
しかも時の権力と癒着して、民衆の生活を破壊して、軍備に何十兆円も出させて、戦争への加担や、先制攻撃態勢へまっしぐら。仏教を掲げながら、あまりの腐敗ぶりに、開いた口が塞がらない状態です。
因みに戦前も同じように、「聖戦だ、聖戦だ、勝つためには法華経に帰依しなくてはならない」と主張し、勤行題目唱えて、アジアへの侵略を全面賛美していたのです。

その挙げ句に、世界を敵に回して大敗北。題目の功徳も何も無かったと言う事。そういうことで、題目なんか唱えていても、何の人間的進歩も、時代に対する正しい判断力も、知性も、ましてや仏性なんかも湧いてこないことは、明明白白。単なる自己陶酔で、慢心を生み、我欲そのものの醜い姿を日々晒しているのです。

一般論で言えば、お経なるものは、人生の導きであり、生き方を教えるものであり、暗闇を歩むための灯りのはずです。「南無妙法蓮華経」と経典の名を唱えていても、自分の行き方を変えなければ、何の進歩も無いのは当たり前です。
困った時に必死にすがっても、経典が人格神になって、雲に乗ってやってきて、経典から手や足が出てきて、救ってくれるわけがない。

宇宙の法則とか、カッコつけて言っても、例えば万有引力定数が、必死に拝んだら半分になるとか、マックスウェル方程式が変わるとか、ある分けがない。

ところで、法華経には、そういう救いと願いを求める弱い凡夫のために、『観世音菩薩普門品』に、どうすべきか書いてあります。
「この世において、幾千万億という人間がどのような苦悩を嘗めていようと、もしかれらが偉大な志を持つ求法者アブァローキテーシュヴァラの名を聴くならば、かれらはすべてその苦悩の集積から解き放たれよう。大火の中に落ち込んでもーーー救い出されよう」云々。観世音菩薩のことを書いています。要するに、「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」と、唱えることがあらゆる苦悩からの救いになると言うのです。

もっともこの『観世音菩薩普門品』は、後世に法華経の中に取り入れられたものということなので、「俺は認めない」という人がいるかも知れません。しかし、それなら一層、法華経が釈迦入滅して何百年も経ってから創られて来た代物と言うことを認めなくてはならないでしょう。

で、法華経を信奉すると言うなら、日蓮が思いついた「南無妙法蓮華経」の題目より、法華経自身の中に書いてあるように、「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」と唱えて祈る方が、まだしも信心らしく、また正当性もあるのではないでしょうか?
あるいは、仏教開祖の釈尊を尊崇し、「南無釈迦牟尼仏」と唱えるのが正当。
あくまでも、そういうものに頼りたい人に対する提案ですが。

更に法華経方便品には、
「或いは持戒・忍辱・精進・禅・智等をもって 種種に福徳を修せる かくの如き諸の人等は 皆、己に仏道を成じたり」と書かれている。戒、禅、智で成仏できると書かれている。
戒定慧は仏教の基本(三学)。そもそもお釈迦様は、長い苦行の末に、禅定をして悟りを開いた。
それを、「禅坊主の首を由比ヶ浜に並べなくては国が滅ぶ」などと、仏教を破壊するような他宗派攻撃をした日蓮は異常な姿です。

体を整え、呼吸を整え、心を整え、その確立した姿として禅を行うのが仏教の基本。ヨガでも有ります。宗教臭いのが嫌いな人には、ホメオスターシス(恒常性)を保つための確立した方法とでも言いましょうか。










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