ただひたすら勉学に打ち込んで分かったこと。

僕はこれまでの人生、尋常じゃないほど勉学に励んできた。


遡ること3〜6年、僕が高校生だった時。

当時は趣味の一つも無く「学校に着いては勉強。家に着いては勉強。」の日々を繰り返し送っていた。

誇張なしで飯と風呂と寝てる時以外はずっと勉強してた。
なんなら飯を食べている時やシャワーを浴びている時も、解に導けなかった数学の方程式の解法をじっと考えていた。

特に受験期では、右手中指の赤く腫れたペンだこに絆創膏を貼っても、血が滲むくらいの勉強生活を送っていた。


大学に入ってからも、日々の授業の予習・復習を必ず行い、成績も上位層を常にキープできていた。


ところがある日を境に将来のことも考え始め、もともと大学院に進学する予定だったが、長期インターンの面接に応募してみることにした。
履歴書にはネットを参考にして、学歴・TOEICスコア・志望動機などを丁寧に書き込んだ。


そこで迎えたインターン面接の当日。
面接で聞かれそうな質問をある程度対策して面接に臨んだので、大体の質問にはきちんと答えられた感触がある。

ところが、

面接官「あなたはこれまでの学生期間で何をしてきましたか。」

僕「、、、」

学生インターンの面接では、王道中の王道とも言える質問に対して、言葉が詰まってしまった。

もちろん、この王道な質問に対してもしっかりと対策は練っていた。

僕「自分がこれまでに一番力を注いできたのは、勉学です。高校時代から今まで暇さえあれば勉強に励み、優秀な成績を常に獲得していました。普段から勉強に取り組む習慣があり・・・(以下省略)」

こんな感じに。


一体あの時なぜ自分は、一番力を注いできたのは勉強だと自信を持って言えなかったのか。


* * *


そもそもなぜ勉強をそこまでしていたのか?

この問いの答えは2つある。


1つ目は高校受験での失敗。

自分は中学生の時に高校受験を経験し、一度失敗している。
地元の同級生の中で、受験に失敗したのは自分一人だけだった。
その時の悔しさと周りを見返してやりたいという思いから必死に勉強していた。


もう1つは褒めてもらいたかったから。

高校時代は、先生や親の期待に応えたいという気持ちが強かった。
先生や親のいう言葉は絶対的だと思い、与えられた課題をただひたすらこなしていた。

今になって気づいたことであるが、当時は自分がやりたいことではなく、先生や親の求めることに全神経を使っていた。


* * *


理想的な人物像の違い

(親も含めた)教育機関が求める理想の学生像と企業側が求める理想の学生像には差異がある。

教育機関が求める理想の学生像は、与えられた課題に対し熱意を持って取り組む姿である。

それに対し、企業側が求める理想の学生像は、自分主体で考え能動的に行動できる姿である。


インターン面接時の

面接官「あなたはこれまでの学生期間で何をしてきましたか。」

という質問に言葉を詰まらせたのは、直感的にこれらの理想の人物像の違いを察知し、自分が答えようとしていることは企業側が求めているものではないと思ったからだろう。


* * *


フェーズシフト

ここまで書いてきたが、なにも高校時代の先生や親を否定したいわけではない。

高校時代の先生は、卒業した今でも毎年飲みに行くほどの仲であるし、先生や親がいなければ自分は学業において成功を収めることも無かっただろう。

しかし、何をやりたいか考えることを怠ってはいけない。

これまでの学生期間、ほとんどの時間を勉強に割いてきた僕だからこそ分かることだと思う。


自分の行動が与えられるのは、相手に対して依存した状態であると言える。

それとは別に、主体的に自分のやりたいことを見つけ行動するのは、自立した状態であると言える。

当たり前であるが、高校生までの与えられた課題をこなすだけでよかった依存状態から、自分で課題を見つけ能動的に行動していく自立状態フェーズシフトしていかねばならない。


そんな当たり前のことに気づいて記事にしてみようと思った最近だった。


 * * *


僕の好きな言葉の一つに奴隷の幸福というものがある。

奴隷の幸福とは、「強制的に有無を言わさず働かされる奴隷は、不幸なように見えて、実際は自分の頭で何をすべきかを考える必要がなく安心し、幸福とまで感じる現象」のこと。

奴隷という言葉は大袈裟かもしれないが、高校時代の僕は奴隷の幸福に近いものを感じていた。

けれどそれに気づいた今は違う。

やるべきこと(must)よりもやりたいこと(want to)

この言葉をモットーにこれからの人生を歩んでいく。