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この碑なんの碑

今回の投稿、はっきり言ってマイナー過ぎて誰も分からないと思います。でも一応、書きますね。

現在「みちのく潮風トレイル」として脚光を浴びている広田半島の長大遊歩道があります。六ヶ浦から黒崎展望台までの間、海を見ながら松林の中を歩く良い感じのコースの途中で、唐突に石碑が現れます。

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潮風トレイルと言うほどの遊歩道なので海は間近ですが、海面から20メートルくらいの高台にあるため、林の外から波の音が聴こえてくるかな、といった場所。碑の高さは1メートルほど。風化しきった文言を見てみると、「海嘯溺死者云々」とあります。

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どうやら三陸各地に点在する津波の慰霊碑であることは間違いないようです。右に小さく「明治廿九年五月五日」と読み取れるので、これは明治の大津波の犠牲者を弔うものと分かります。1896年に発生したので、今から120年以上前ですね。ちなみに海嘯(かいしょう)は現在では河口に逆流する潮流を指しますが、かつては津波の意味でした。

ところで、、この石碑は考えてみると不思議です。

まず、誰が何の為に建てたか?というところ。文面が風化しきったために読み取れないというのはあるのですが、120年以上前の個人なのか団体なのか一切不明です。いわゆる「教訓」めいたメッセージが無いことから(地震があったら津波が来るぞ的な)、おそらく個人のものだと思うのですが、、

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加えて、建っている場所が謎すぎるということ。基本的にこのような碑は三陸各地にあるのですが、往来のある道沿いの目立つところ、又は寺の境内に置かれるケースが殆どです。このような松林の中に人知れず建っていることは稀と言って良いかもしれません。推測ですが、過去の先人たちは敢えて目立つところに碑を建てることで、子どもたちに「あそこに碑があるだろ?あれはな、、」という何気ない会話のとっかかりにすることもできたと思います。ところが、コイツはそれに当てはまりません。「昔は往来があった道で、今はそうでもなくなったんだろ?」と言う人も居ると思い、今昔マップという地形図閲覧サイトで100年前の同場所を見てみると、道を示す線は記入されていません。と考えると、この場所は碑の建立当時は道すら無い人跡稀な山中だったのかも知れません。ますます深まる謎。誰が何の為に?

仮説を強引にあげるならば、、、海を一望できた高台に碑を建てることで、死者行方不明者問わず供養をした。現在は木が生育したために木立の中にあるが、建てた当初は海を望むように碑が建っていた。航行する船からも望める場所だったのではないか?と。ちなみに当時の広田村、三陸各地の寒村の中で一番人的被害が多かったと言われています(山下文男著『哀史三陸大津波』より)。

あまりにもマイナーすぎるために、国土地理院発行の地形図に掲載がスタートした災害慰霊碑としても載ってません。それどころか市の教育委員会にも認知されていないようです。なぜだろうか。

直接見に行きたい物好きの人は、遊歩道の大祝浜と小祝浜の中間にあります。ただ、説明板などが一切無いためスルーしてしまうかもしれません。潮風トレイルとして整備するついでに何か書いてあげたらよかったんだろうけど、こんな得体の知れない碑は扱いづらかったんだろうな、、

120年の間、物言わぬ証人として建ち続けた碑に、どうか光を当ててあげたいのです。