黒崎神社式年例大祭、雑惑 #4
決して#3の貼り間違えではない。
再びのガガニコニン、今度は中央祭組である。よく見ると才坊振りのズボンは広田小学校のジャージをそのまま使っているようである。
中央の虎舞、カッシャは四体。見ると正面の神社の名前が二体ずつ異なっているようだ。おそらく、普段は神社の建物に保管されているのだろう。「熊野神社」と「深山神社」。二つの神社の関係性は不明だが、ライバルなのか、それとも師弟関係なのか、はてさて。
とにかく、広田半島には神社が多い。
その中でも黒崎神社が一番大きな神社である。その下に、、、一体いくつの神社があるんだろう。個人が管理しているものも併せれば30~40カ所はあるのではないだろうか。この数は推察の域を出ない。文献も参考資料も無い。が、広田に住んでいた我々の先祖が、いかに神々の信仰が厚かったかを察することができる。なにせ60軒しかない我々長洞の集落にも6カ所あるのだ。そのうち1つは震災によって流失、いまだ再建を果たせていない。だとしても、単純計算で10軒の家があれば1つの神社に関わっていることになる。これを多いと考えるか、少ないと思うかは人それぞれだろう。
小袖組は、12年振りの出場となった。とにかく「人がいない」、のだという。
では、どんなキャストになっているんだろう。
し、シブい(超失礼な表現)
どうやらベテランのメンバーを登用しているようだ。いったい何年目、、?というような。見ると僕の父親の同級生まで参加している、さらに上の年齢の人もいるようだ。
おそらく、「若い衆がいないからできない、でない」という現状を打破すべく、「やれる人だけでやろう」と斬新な方向転換と言える。
ちなみにこれも、何年物?wな音源であった。
父親とその同級生の方の談笑。
「うまかったねえ、、失敗しなかったもんね」
「んだべぇあ?だーれぇあ、名球会入りみでぇあなメンバーだぜぇあ?」
小袖は立て続けに手踊りゾーン。
この時、河内おとこ節やってたんだよなあ、懐かしいなあ。(これも震災前の五年祭でやっていた曲のひとつ)
続く大陽は太鼓の演奏からスタート。
何人か助っ人選手がいるようだ。そして、、子どもたちの多いこと。こんなに大陽って人多かったか?というくらい。聞くところによると保育園児まで参加範囲を拡大したとのこと。
大陽の手踊りが終わると、泊から赤磯太鼓のお出ましだ。
泊組の出場枠から「赤磯太鼓」の出場だ。
赤磯太鼓が現在の保存会のテイストになってから二回目の出場とのこと。週二回の練習は欠かさないそうだ。現在のコミセンが高台に移転する前は電気が来ない保育園の跡地で練習をしていた。
まもなく神輿が黒崎の浜に降りる時間がやって来た。
神輿が浜に降るタイミングで、中央、泊、中沢の虎舞と、の喜多の七福神は浜での奉納を行う。
海をバックに郷土芸能を奉納するのは、気仙各地の中でもなかなか見れないのではないか。特に、この黒崎は外洋に面しているために、荒々しい海がバックに見える。
のであるが、次は我々の組の出番になるので、カメラを持ったまま、その場に留まることにした。