見出し画像

黒崎神社式年例大祭、雑惑 #5

そういえば、書いてて思ったことが一つ。

今回のお祭りの会場、踊りの一番後ろのラインが後ろにせり出しすぎているために、否が応でも「中澤濱祭組」の看板が眼に入ってしまう。「あれ、長洞なのに」と思っても、どうしても。中沢の人たちには申し訳ないが、なんとなく、思ってしまったということで。

画像1

今回の長洞、子供の踊り手が総じてスニーカーなのは本当に残念だったなあ。

画像2

午前の部の最後も長洞だ。ここで「御祝い」をやってから、会場全体がお昼休憩のような雰囲気に入る。

画像3

平均身長が180cmはあるのではないか?というくらいの船方衆。実は一人だけ、本当の船方がいる。練習から「やっぱり本職は違うなあ」と言われていた。

画像4

画像5

ここで「御祝い」の'あらまし'を。なんと言っても自分の組なので、多少は知ってるつもりなので。

本来の「御祝い」は、漁から帰ってくる漁師たちが大漁をした、自然の恵みに感謝、という意味を即興で歌詞を付けて節回しをした、いわば労働歌なのです。

画像6

古来、日本には各地に労働歌がありました。

「賃金値上げ云々」とかってことではありませんよ。まあ、それも近現代の労働歌として括られうるのかも知れませんが。

いわば、作業中に歌われる歌・・・無言だとチームワークがうまくいかない、とか、辛い作業も楽しく歌えばみんなで乗り切れる、とか。

そういうコンセプトがルーツの歌が沢山あるんです。

画像7

岩手では「南部牛追い唄」が代表ですよね。他にも山の中では「木挽き唄」があるますし、農村では「田植え唄」。家の中で奉公人が歌ったであろう「子守唄」。近代に入れば、鉄道線路の補修の時に保線マンたちが歌った「道床突き固め音頭」なんてのも出てくる。


それらはいずれも、テクノロジーの発展に伴い、次第に歌われなくなっていった。「御祝い」も、そうだった。昭和前期に、長洞在住のS氏が、それまで即興的な曲だったものに、明確な歌詞といくつかのパートに分かれた踊りを振り付けた。当初は集落内の演芸会で披露されるものだったらしいが、好評を得たことから、恒久的に伝承することを思いつく。

画像8

画像9

ここでS氏は、全てのパートの踊りと、歌唱と、太鼓に至るまでを女性のみで演舞することを思いつく。

画像11

これが思いのほか好評を博し、以後、約半世紀にわたって女性のみで「御祝い」が長洞では伝えれている。

ここで重要なのは、御祝いとは決して「長洞だけで」歌われていた訳ではない。歌そのものは、三陸全体に分布している。あくまでも「踊りを振り付けたのは、長洞だけ」ということ。そして、それを女性だけが踊りを踊っているのも、実は長洞だけである。

後継者減少、そして、そもそもが勇壮な浜歌ということもあり、他の大漁歌を伝承している地区を見ると、男性だけで構成されていたり、男女混合で行っている地区が殆どだ。

画像10

しかし、女性のみとなると、、、難しい。

というのも、女性は「嫁いでくる存在」であって、元から長洞に居るわけではないのだ。

ここでの「御祝い」の存在は、いわば町内会のサークル活動と思って頂ければいいだろうか。いわば、ママさんバレーボールのような。

画像12

つまり。

長洞に嫁いできた女性たちは、「まぁず、はまらっせん!」と言われて御祝いを始める。右も左も分からない土地に暮らし始め、隣の家の屋号とかを覚えるついでに、いろんな踊りのパートを経験していく。最初は「拍子取り」、次に踊り手、船、太鼓。後輩が入ってくる頃には、もう一人前、といったような。無論、長洞で生まれ育ち婿を貰った家娘たちも中にはいる。その人たちが先陣を切って、屋号とか、踊りとかを教えながら。

画像13

御祝いを引退した長老が言う。「今はカネトリが増えたからね。みんなね。だれ、今、はあ「おら、務めてっから暇無えがら行がね」だの何だのって語っがらす」

ここでのカネトリとは、労働者たちだ。つまりは現金収入を求めて市内へ繰り出す女性たちのことを指す。確かに長老たちの時代とは異なり、専業主婦は減り、何日の何時から○○やるから公民館!といっても、人手が揃いにくい時代がやってきた。

お祭りの練習でさえ、だ。特にお母さんたちは介護職や看護師が多い。夜勤やシフトに左右される仕事に就く人たちが多いため、今回も苦労した。長老曰く、こんな状態が続くならば四年に一度のお祭りはおろか「観音講」も「神さま遊ばせ」もできなくなるだろうと言う。(「」の中はどちらも女性たちが集う年中行事)

今回のお祭りは、人数を多く見せようという作戦、、、そして練習場所の確保の難しさから、パートを減らした上で男女混合で行った。S氏は、天国で何と言うだろうか。なんてことをするんだと憤っているのだろうか、それとも。