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県が作った旭町の森紅園〜青森の遊郭と仲町通りの話


今からは考えられないですが
遊里、色街という
大人の男性と大人の女性が遊ぶ街というものが
この青森にもあったのだそうです。

青森市に存在したのが
旭町の森紅園と浜町の料亭街

遊ぶと言っても

この2箇所は

それぞれ違っていて

森紅園の方は
名前だけ聞くと公園的なのですが

実は遊郭

そして、この青森に昭和30年くらいまで、存在してたそうです。

幼少の頃
旭町付近に住んでたので
この森紅園と呼ばれた一角を通ると
あたりの通りは狭いのに
幅の広い通りが突然現れ
そして、きっちり正方形な区画が2つ
不思議な通りだと思っていたのです。



そこが森紅園

そして、その前身は、かつて堤川沿いにあった柳原遊郭でした。

柳原遊郭はずいぶんと賑わい、周辺の大阪町(現在の港町界隈)は
そのおかげで経済的な恩恵をかなり受けていたそうです。

しかし、柳原遊郭も明治43年の青森大火によって焼失してしまいます。

昔は港町といえば遊里がつきもの
遊里のない港町は発展がない

などとも言われ早期の遊郭の復興が望まれたそうです。

新しく遊郭を建設するにあたって
港町、茶屋町などは学校なども近くにあり
コレから青森市の中心部になる
その地区に
遊郭など建てるのは、宜しくない!
という議論が県議会内に噴出

なかなか解決しないため

当時の知事、武田千代三郎青森県知事は

県議会に柳原遊郭の旭町移転を提案します。

コレに対して
知事ともあろうものが
と、批判が、おきたそうですが、
知事は臆する事なく、旭町移転を裁断したそうです。

この当時知事は政府から派遣で全国に赴任していて
その大半は薩長出身者で固められ
絶対的な権威者であり、
地元は知事の意向に逆らう事が出来なかったのです。

しかしながら、
武田知事が遊郭の建設を急いだのには
それなりの理由もあったそうです。

先ずは、青森の大火の後始末で
青森の街に他県から大勢の復興関係者
すなわち大工、左官、棟梁などの建築関係の若者が入ってきている。
知事は、そんな中での治安悪化
つまり青森の婦女子の身の安全を考えたそうです。

もう一つは
知事は遊郭を一つの産業とし考えたそうです。

知事は福岡県出身

故郷の小倉、八幡、博多の隆盛を極めた故郷の町々の発展の裏には必ず色町の支えがあり

遊里の無い港町に発展はありえない

そう断言したそうです。

当時の青森には集客出来る観光施設、観光スポットも全く無かったのです。

青森の復興そして街のこれからの発展のため背に腹はかえられぬ

そのような決断でした。

こんな経緯もあって何と県職員が東京の吉原の視察を行っています。
文字通りの官費遊学

そして、その報告に基づいて森紅園が建設されて行きました。

なので可能な限り吉原を模して森紅園は作られたそうです。

そんな森紅園

出入り口は一つしかなく、その門には警察の詰め所があり
警察の巡査が警備を行なっていたそうです。
なにしろ県が企画してるんです。
今からだと驚きですが、公的機関によって管理されてたのが森紅園なのだそうです。

そんな森紅園の中といえば

妓楼の数は20数軒、個人経営の3等貸座敷もあって

人で溢れかえり、まるで縁日のような賑やかだったそうです。



森紅園が開設されると

周辺も窪地だったのですが、整備も進み

家が建って急速に発展、

森紅園の需要に応えるように
遊女に送る貴金属のお店、和装の小物屋、酒店、タバコ店、薬店、
そば屋、鰻屋、化粧品店、質屋、果ては神社も出来たりと商店も続々と出来てその波及効果は絶大だったそうです。

旭町への通り道といえば線路があります。

森紅園に向かう通路としては旭町の正面から入る時は旭町の踏切を通りますが



夜店通りから長島仲町通りから無人の踏切があって
そこを通る人も大勢いたそうです。

ちなみに、仲町と呼ばれるようになったのは
はじめは元長島通り、俗に電気館通りと呼ばれていたそうですが
県職員が森紅園の活気づける為に、吉原の仲町にあやかって名前をつけるのを進言したことによるのだそうです。

仲町通りから森紅園に行き来出来た頃は
仲町通りはとても人が多く
旭町通りを表参道とすれば仲町通りはさながら裏参道のような役割だったそうです。

今もセンスが良いが良く豊富な種類で県内1の品揃えの
帽子のお店「レンカ堂」ですが、大正7年の創業当時は
靴、衣料雑貨、玩具や文房具も取り扱う洋品店として人気でした。
森紅園参りの身なりを気遣う世の男達はココレンカ堂で帽子を新調してお目当ての場所に向かったそうです。

仲町通りは500メートルくらいの短い通りなのですが
何故とは、ここで書きませんが3軒も薬屋があって
そこには森紅園の行きと帰りに立ち寄る人も多かったそうです。

そんな通りですが
昭和20年代の後半、事故が絶えず封鎖されると
それまで栄えてた長島仲町通りもさびれながらも名前が、その当時を偲ばせています。


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記事参考/ 新青森市史
新町秘ストリー長谷敬生

付記
仲町通りに電気館がかつてあったそうですが
電気館は元々は大成座という芝居小屋でしたが電気が普及し活動写真の時代に電気館になりました。
その隣には明治座という芝居小屋もあったんだとか
森紅園に真っ直ぐ行かず
電気館で時間を潰して向かった人も多かったのだそうです。

いずれにしても過ぎ去り昔、昔のお話です。

付記2

旭町通りにかつて「きたかつ」という古い薬局があって
家のリフォームをする間

数ヶ月なのですが

その薬局の何部屋かを間借りした事があるのですが

そこが不思議にも森紅園の建物とそっくりで

古い木製の木戸、格子
離れたところにある昔のトイレ、厠/かわや

かわやを出ると石の水溜めなどがあって

きっとあそこもこんな風になっているのだろうと思った事があります。













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