見出し画像

「堤川屋台街と青森焼きそばの話」

「堤川屋台街と青森焼きそばの話」

今では、堤川の辺りに屋台街があったなんて思いもよらないかも知れません。

でも、堤の界隈には屋台があって結構賑わいもあったようで
青森市の名物的場所でもあったそうです。

終戦後、青森市には闇市から始まった屋台が青森駅や柳町周辺に堤川沿いに出来、賑わっていましたが

時代と共に風紀や営業権利、衛生面など問題視されるようになり
撤去されていきます

堤川沿いの屋台も
昭和44年後から解体がされていったそうで

資料や記録、書籍の中くらいでしか
知ることが出来ないようになってしまいました。

この周辺に生家がある
我が家の母によると
昭和44年頃はほとんど屋台街と言っても
数が少なくなっていたはず

子供の頃の昭和25年くらいには
けっこうたくさんの露天商や屋台が確かにあって
焼き鳥屋台にお使いした記憶が鮮明に残っている様子

記憶によると
当時の政治家“大塚英五郎”が奥さんと営む焼き鳥屋台があり
そこには大勢の大人が集まり
何やら難しい政治の話をしていたといいます

この堤川界隈には、多くの芸術家も集まってきていたともいいます
棟方志功とも親交のあった画家の松木 満史も
堤川の袂の諏訪神社付近に住居を構えて
堤橋の近くにあった書店、大観堂で見かけたといいます。

当時はこの堤橋付近にはお店も多く
大観堂の隣側に僕のオモチャなどもありましたが
今ではこの界隈に残るお店は
神戸屋呉服店、小田九などのお店だけになってしまいました。

そもそも、なぜこの堤橋界隈にお店、屋台街が多く出来
そして、廃れていったかというと

やはり堤橋が大きく関係するようです

青森市の東側の出入り口とも言える堤橋は多くの人が通るところ
現在地の堤橋の位置に橋が出来たのが
資料によると1874年、その後需要に応えて
鉄筋コンクリートに増強されたのが1934年

戦後になって車や人の通行が増え
堤橋も拡げられていきますが
それでも堤橋は市内屈指の渋滞地点

そんな堤橋には
いつも多くの人が当然集まっているので
繁華街がつくられたわけです

そんな人が集まってくることによりおきている渋滞を
なんとか無くそうと市の当局は国道の堤橋の代わりの橋を作る為

堤川に形成されていた屋台街の撤去を進めたそうです。

多くのこの屋台街を営んでいた市民と行政の間で
建設と警告のやりとりなどのトラブルがあったといいます

屋台街の移転先となった建物も今では残っていません。
屋台街の事を後世に残す資料も次第に色あせ記憶も消えかけています

微かに残っているのは焼きそばが繋いだ食文化

青森市では他ではみない焼きそば専門店があります。

他所に行くとお店のメニューに焼きそばというのがあるとしても
単体で焼きそば専門店といのは珍しいんだそうで

それもこの界隈で営んでいた焼きそば屋台の名残とも言われています。

それにしても昔は堤川周辺に焼きそば店もけっこう多かったです。

多分、港町の働く人や、商業や、北高、など学生も多かったからだと思います。

自分の母校も合浦周辺にあったのですが

木造の建物の店先にゲーム機がある小さなお店で

焼きそばを買い食いし、インベーダーゲームをして帰った記憶が残っています

お店のおばさんが中華なべで
フライ返しを使って器用に焼きそばを炒める光景

そして、なんとなく味が思い出されるんですよね

茹でた太麺
むちっとした食感
その麺にソースのうま味が絡んで、
とんがらない味わいながらもしっかりした味わい

焼きそばは時間が経つと
麺の中に味が染み入ってしまいぼやけた味になり
それが美味しいという人もいますが
個人的ですが
やはりできたての、しっかりメリハリのある味わいが1番美味しい

あの思い出の味わい。

………………

最近、青森でも1番古い焼きそばのお店
鈴木焼きそばさんが閉店して
昔ながらのお店も少なくなりました。

たまに、買って食べてたんですがとても残念

残ってるのは、堤近く茶屋町の後藤さんや、原田製麺さんなどだそうです。

焼きそばのお話などするので
思い出してしまいました。
近いうちに行ってみようと思います。

皆様も青森に来て機会があれば
是非青森の焼きそば味わってくださいませ。

参考資料/新青森市史、青い森と堤川、東奥日報記事
写真/新青森市史

記事編集/鈴木勇(グローバルキッチンサイゴン所属)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?