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青森のなくなった川―水の歴史と失われた風景



「青森市の旧称が善知鳥村である」という説は実際には誤解であり、史料や古地図からも善知鳥村の存在は証明されていないそう

実際の地名伝承によれば、青森の地名は蜆貝川河口部にあった小高い丘に由来し、新しい町の名前となってるそうです。

約110年間、善知鳥村と青森の関連性はなく、

また青森山も青森の発祥地とは無関係であることが判明している。

青森の誕生に関する伝承は正確な検証が必要であり、これまでの誤解が市民に広まってしまっているんだとか

私たちの故郷青森市は過去にはどんな姿をしていたのでしょうか。

馴染みのある町並みが広がる青森。
しかし、現在の景色とは異なる、かつての青森の風景を想像してみてください。

昔はそこに水路や沼地があって
その存在が町を彩り、人々の生活に欠かせない存在でした。その中でも特に注目すべきは、失われた川たちです。

青森は、水路が町の発展に大きく寄与していました。
川の一つ、尻無し川(しりなしがわ)は、その名の通り、地下に消えたり断裂したりする箇所がある不思議な川で堤川の西側に存在していたそうです。
そんな尻無し川の姿を想像するのは古い地図に頼るしかありません。

蜆貝川(しじみがいかわ)もまた、青森の町を縦断していました。
今は平和公園通りとなっている通りには川がありました。

そして現在のホテル青森が建っている場所にはかつて沼地も広がっていたと言われています。

そんな蜆貝川は海岸線の手前で東に折れ、その痕跡は青柳二丁目1番地と4番地の間の道に残されています。そして、海へ注ぐ部分は青柳二丁目4番地と5番地の間に位置しており、そこから海へと向かっていったのでしょう。

水路と沼地が繋ぐ場所にも興味深いエリアがあります。蜆貝川と堤川をつなぐ水路には沼地が広がっており、その痕跡は青柳二丁目7番地と22番地の間の道や莫町小学校の横を通る道に見ることができます。当時の人々にとって、この水路は重要な役割を果たしていたようです。

なぜなら、これらの川は防災にも役立っていたのです。

火事の多かった青森町では、蜆貝川がその勢いを食い止める役割を果たしていました。炎が広がる中で、蜆貝川は火の勢いを封じ込め、町を守ってくれたのです。

さらに、青森の港町として重要かつ象徴的な存在だったのが、蜆貝川から善知鳥神社まで通じる堀割(水路)です。

この水路は現在は確認することができませんが、当時の「港町青森」において、米の運送に不可欠な役割を果たしていたと言われています。青森の米町は海岸沿いではなく内陸に位置していたのは、この水路のおかげだったのです。

善知鳥神社の南側から西に伸びる水路やうとう沼から伸びる二本の水路もまた、青森のなくなった川の一部です。

特に、うとう沼から伸びる北側の水路は、現在のJR青森駅の近くまでたどることができます。

これらの水路は現在でもその痕跡を辿ることができ、過去の情景を感じることができるでしょう。

一方、南側の水路は現在の県庁の西側を南北に伸びる昭和通と交わります。この交差点の南側、ホテルサンルート青森の建物の北側にも、水路の痕跡が残っています。さらに、この水路は新町の南側を東西に走る水路とも交わり、栄作堂本店の北側を東に延びる道にその痕跡を見ることができます。

青森の町は、数世紀前には水路や沼地に囲まれていました。沼地は干上がってしまいましたが、水路は港町青森の発展を支える役割も果たしていました。

現在の青森には、かつての風景を思い起こさせるものはほとんどありません。

しかし、かつての町を著した「町絵図」を手に取りながら、昔の街並みを想像してみてください。

藩政時代の街区が現在も生かされており、それぞれの街区には当時の住民の名前が記されています。町を歩きながら、過去の人々の息づかいを感じることができるでしょう。

青森のなくなった川たちが持っていた歴史や風景は、今も私たちに語りかけています。

古い地図や水路の痕跡を頼りに、かつての青森の姿を追体験してみてください。その時、過去と現在が交差する魅力的な風景が、あなたを待っているはずです


記事作成/鈴木勇(サイゴン、わやわや店主)
記事参考一部転載 新青森市史通史2

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