『最後の奇蹟(リモート版)』セルフライナーノーツ②「魔法」

まごまごしているうちに投げ銭期間が終わってしまったよてへぺろ。

私が『最後の奇蹟』という作品を演出するのは、実はこのリモート版がはじめてのことです。
初演、ホテル・ミラクル版はfeblaboの池田さんが演出。再演のヨッタイキオイ版は特定の演出を立てず、出演のお二人が稽古をしながら立ち上げました。フジタは監修という形で作品のヒントを提示するにとどめました。

はじめての演出がズーム演劇になったのも数奇なもので、今回のこのお話をいただいたとき、僕は正直リモート演劇なるものにあまりいい印象を持っては居ませんでした。12人の優しい日本人や未開の議場など、当時オンラインでの演劇は盛んに行われていましたが、僕は個人的にその「嘘のつきかた」が好きになれませんでした。ズームの体なのに、ズームで繋ぎながら個人的な電話をしたり、電話の途中で退出したり、あるいは体としてズームではないにもかかわらずみんなカメラの方向いていたり、どうにもなじまない、ルールがわからないと思うことが多かったのです。(もちろん、12人も未開も作品としては大好きで、大変面白く拝見したのですが)

僕はそもそも演出を行うとき、演劇の「魔法」ということをよく考えます。それは例えば、一瞬の時間を無限にも等しく拡大したり、永遠とも思える時間を圧縮して見せたり、それは空間もそうです。拡大と縮小。これは演劇の魔法のもっとも基本的かつ原初のものと僕は理解していて、『最後の奇蹟』という作品もその原則に則って書かれています。ミニマムな男女の会話が世界の終わりと同期する、という拡大の仕方。

今回ズーム演劇を演出するに当たり、僕はどうやってこの「演劇の魔法」を使うか、をすごくすごく悩んでいました。いろいろ試しているうちに思いついたのは、「あれ?拡大と縮小ってつまり、ZOOMってことでは?」という半ばダジャレのような、くだらない気づきでした。Zoom video communicationsという社名の由来はちょろっと調べただけでは正確にはわからなかったものの、私が想像するにそれは、世界中のどこからでも、まるで隣にいるかのようにアクセスできる、つまり世界の縮小とコミュニケーションの拡大、ということなのではないかと思われました。これは演劇の魔法の解釈に近似します。ここはあくまで自分の部屋で、ひとりぼっちで、隣には誰も居ないのだけれど、インターネットにアクセスすれば、少しの間それを忘れられる。まるで世界が縮小して、この部屋に君が居るかのように思える。目指すべき地平はそこだと思いました。

そのためにはまず、ここが「ズーム」であり、彼らが皆「孤独」であることを示す必要があります。幸いにして『最後の奇蹟』には、最初のト書きに「転換」の指示が書いてありました。(僕は短編を他の団体に書き下ろすとき、時々こういうことをやります。上演順が一番最初になりたくない、できれば最後がいいという下心と、前の作品で客席がどんな空気になっていても、魔法を使うための準備のためです)ト書き通りに『月の光』をBGMに、今日初めて出会った行きずりの男女が、自室という劇場からインターネットを介して擬似的なラブホテルへと至る。これが、今回僕が使おうとした「演劇の魔法」でした。

ネタばらしすんのクソはずかしいですね。

続きはまた今度。あと一回か二回くらいで終わりそうです。わかんないけど。

投げ銭は終わっちゃったけど、視聴は無期限なので、せっかくだしいろいろ踏まえた上でもう一度みていただけるとうれしいです↓


https://youtu.be/-xm9vJk9M-c


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