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ゼーゲル・キルケゴール

ゼーゲル式は 横並びに表記されるほうが多いが 縦に 分数のスタイルで表記したらどうかと思う

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分母はアルカリの総量を1とし、それぞれのアルカリの分量を示し、分子にはアルミナ シリカの値を表記し次に アルミナを1としてシリカの値を表記する。分数の上に分数がある。分数を関係(性)とするなら関係の上に関係性が立っている。二階建てとすれば分母を分子とする分母が下へと加わり、分子を分母とする分子が上へと加わる。存在が幾重にも重ね上げられた塔のようにもみえてくる。

ここまでくると想起するのは キルケゴールの「死に至る病」の一節。  引用すると、「人間は精神である。しかし、精神とはなんであるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは その関係においてその関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。・・・・・」

個人的な読書の方法は 誤読 勘違い 置き換えて読むというもの。この文章はゼーゲル式を解説しないが このキルケゴールの言葉を読み込むにゼーゲル式の置き換えは示唆をあたえる。 重層的分数ではなく単純な一階建ての分数はたとえば率という名を与えられ 一つの量で表される。円周率、出生率、失業率、陽性率、速度 。実にたくさんの率にかこまれている。分母が共通ならば 比較 対照をすることができる。

キルケゴールが絶望であると言っているのは、分数が単一の項として したがって関係性ではなく(弁証法的ではなく)見られ、聞かれ、想われ、生きられているその時ではないかと思う。2と、1分の2と、3分の6は同じではない  自己を(可能性)分の(必然性)であらわし分母に 神をおく。横棒をなかったことにして可能性のない必然性、必然性のない可能性は絶望なんだといった。また、これは語ったかどうかわからないけど自己(わたし)のない神は、神のない自己は、絶望だというだろう。両者を分数としてとらえるなら。

死にいたる病はアンチクリマクスという別の名を著者名にしてキルケゴール自身は刊行元になっている。他の著書も同じようなスタイルで 物書きであるとともに編集者でもあったともいえる。語られた言葉が今日もこちらまで深くひびくのは、彼が いま終末を迎えつつある近代の 生まれつつあった場所にいたからだと思う。

そうゼーゲル式だった。アルゴリズムはいつも 窯のまえで絶望する。しかし横棒をなくしてはいけない。                    これからゼーゲル式は拡張されてゆくだろう。分母には胎土が そして酸素も炭素もどこかに加わる。大切なことだが、私の顔も、そして遠くにいて、この火の中からやってきたものを 必要とする誰かの顔、その誰かをいとしいと思っているその大切な人の顔も この塔の何階かの窓にみえるはずだ。

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