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斜めうしろのロートレック

西洋の画家の中で誰が好きかと問われれば今でも僕はロートレックが好きだと答えるだろう。ではなぜ好きなのか。久しぶりに画集を開いてみる。彼は人間を描いたと言われている。確かに風景画は見たことがない。その人間の絵であるが今見てもじつに新鮮である。ロートレックより前の世代を生きたボードレールの暗鬱の詩が新鮮さを失なっていないことと共通している。当時のパリという大都市が歴史にもたらしたものが現代の都市の中でいまだ命脈を保ち続けているからなのだと思える。ロートレックの絵は都市の絵だ。
彼の絵の背景に20世紀末のロックが突然流されたとしても僕は違和感を感じない。
 
ロートレックには洗濯女という絵がある。とても好きな絵だ。白い服を着た女性が上体を前に傾けて、おそらく窓の外を見ている。其の上体を袖をまくられた左手が支えている。顔は横顔、目は髪の毛の影になって見えない。ロートレックはモデルの斜め後ろから見ている。そしてこの構図というか角度で描かれた人間がほかにも多いことに気づく。僕がずっと惹かれていたのはその斜め後ろから描かれた女性を描いた絵だった。それを美しく感じていたのだ。そのことに気づくことができた。

正面からかかれた肖像画ももちろんある。しかし肩と背中と髪とすこしの横顔の輪郭のある女性は美しいと思い込むと、ムーランルージュのなかで多くの人が描かれていても、そしてその中に正面をむいた人の顔が光で浮き上がっていたとしても、その手前に背中とほんのすこし横顔をみせている男と女をみつけてしまう。ロートレックが描きたかったのはこの女や男ではなかったのかと。
 
都市はじつにたくさんの人間がすむところだと思う。その都市というものに残念なことではあるがごくわずかな時間滞在した経験しか僕にはない。多くの人が流失していった農村では行き交う人は極わずかだ。まれに出会えば顔をあわせてあいさつをする。声もとどかないところでは布団をほしたり鍬をふるうひとの横姿や背中をみることがある。そして現実には対面することのない人との間にも今ではやりとりが可能である。いったい僕は人というものを他者をどのようにイメージしているのだろうか。会った事の或るひともないひとも、やりとりすらないこちらが一方的にしっているだけの人を、正面を描いた肖像画のように思い描がこうとしているのではないか。
違うと思うのだ。僕はかれらの正面にいない。かれらも僕の正面にはいない。かれらは僕をみているのではないのだ。
僕がみているのは彼らのカラダが心が何かにむかっている其の姿だ。手が掴み目がとらえたものを肘や肩や首が支え、それを背中が受け止める其の姿だ。
だから 僕は斜め後ろに立っていたい ロートレックのように。

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