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 朝方、エサをやりに鶏小屋に行くと雌のチャボが隅のほうでうずくまっている。卵を生むためにじっとしている様子でもなさそうだった。その鶏は前の日、立ってはいたが近づいても逃げなかった名前はつけてはいない老齢の一羽のチャボだった。からだが、わずかな膨らみと収斂をゆっくり繰りかえしていることで生きていることがわかった。しかし、虫の息である。なんの抵抗も叫喚もなく僕の腕に抱かれて外に出た。

陽のあたる框に腰掛けてしばらくなでていた。黒地に茶色のふさふさの羽でおおわれた丸いからだのなかに頭が小さく埋もれて、小さな目はとじられたままだった。鶏冠はとても小さく赤身が少ないようにみえる。もう終わりかもしれないなと感じた。鶏小屋にもどせば昼までには多分死ぬかもしれない。でもそれはできなかった。この鷄は最期までみてやりたいと思った。

 山に家族と住まいをかえて、はじめてやってきた動物が鶏か猫なのかおぼえていない。鶏はだいぶ離れた海の近くの小学校までもらいにいった。夏休みのころだったと思う。その時期を憶えているのは、学校の鶏小屋から取り出す時に失敗して校庭中を走り回る鶏を追いかけたこと、夏休みの午前中、学校の教室に来ていた子ども達も先生も皆で追いかけ捕まえた、それは今となっては笑える小さな事件になったからだと思う。それから半分放し飼いにしていた鶏が野犬に襲われて一羽だけ生き残ったオスの「隊長」と名前をつけていたチャボを不憫におもいその小学校に問い合わせると全部引き取ってもらうという条件で鶏をいただくことができた。世情では鶏インフルエンザのことが報道もされていたのでその影響があったかもしれない。ウッコッケイが三羽くらいあとチャボが五羽以上はいたとおもう。鷄小屋もそのときに大きめな中に人が立って入れるくらいの物を作った。以来、子どもたちが大きくなってゆく家の隣の棟で、鶏たちの歴史がはじまった。

 鶏の名前は僕がつけていた。青年、あっこちゃん(体がおおきい雌だったので)とろっきー(暗殺された革命家ではなく単純にとろいので)、タッタカターン(鳴き方から)ゴリラ、ちゃろばあ、・・・・ヒヨコが大きくなって数が増えてその数がかぞえられなくなって、名前を付けるのはやめにした。

 鶏は明け方鳴く。それは人が起き始める時間よりも随分はやく、最初の鳴き声で目がさめるとまだ四時にもなっていない。それに慣れるのに時間はかかったがそのうち気にもならなくなった。自然から聞こえてくる音というのは少々大きくても受け入れることができる。眠れない時など 逆に鶏の鳴く声が聞こえてくると、不思議と眠ってしまうことがあった。ひと鳴きとひと鳴きとの間には絶妙な間合いがあり、そしてそれが別の鳴き手にかわってゆく。重なって聞こえたことはあまりなく、それぞれが独唱である。まだ暗い、夜明け前のしんとした山の静けさのなかにその声が響いて行く。

鶏小屋の側面には鶏が出入りできる大きさの戸口をつけてあって、朝、適当に囲いをした庭に戸口を開けると一斉に彼らが出てくるわけだが、夕刻全員が戻るわけではない。その囲いの作りの適当さのゆえに、外に出る鶏もいる。それを発見し小屋に誘導して行くのもなかなかに難しいことだった。外には、カラスにトンビに タヌキに蛇と天敵が空の上から、藪のなかから鶏たちをみている。不幸にして小屋に戻れなかった鶏もいる。夜中に苦しむような鳴き声がきこえ、その鳴き声がだんだん遠くなって行く。その時は、ただ残念に思い布団のなかであきらめるしかなかった。

 チャボの卵は小さい。小さいが黄実自体は大きく卵掛けごはんにすると黄色くなる。市販の卵と比べればその色の濃さはすぐにわかる。鶏は卵をお腹のなかで温めたいという強い習性があるようで余所の卵を横取りしてでもお腹の下にいれる鶏がいる。こちらは卵を食べたいのだが彼女は素直に応じず尾をたててかなりの抵抗をしめす。何個かはマジックで印をつけてそれ以外のものを 誠にすまないのだけど横取りして帰る。

 雛が卵からかえった、というのは突然にわかる。うずくまる親鶏の翼のあいだからとても小さな姿をたまたま発見できたときの喜びは鶏を飼う経験のなかで最大のものだと思う。

その驚きと喜びはすぐに、こども達に伝えられ子ども達は鳥小屋に入り手のひらに雛をのせ、飽きもせずじっとみている。しかしあまり触ってはいけない。

鶏にとっては雛育ては神聖な行為である。

生まれた雛のめんどうをしっかりみる鶏がいた。あっ子ちゃんという名の白い雌のウコッケイは自身は卵を生まなかったと思うけど若き保母さんのように彼女のまわりには いつもたくさんの雛が集まっていた。その生まれた雛のすべてが大きくなるわけではない。埋めてやれたものもあるけど消えていったものも多い。人間が鶏の子育てに関われるわけではない。彼らとの接点は朝夕の水とエサやり 庭の戸締まりだけだが、こどもたちが緩やかに大きくなってゆくひとつの子育ての間に、トタン葺きの屋根の下では何代もの世代がつながっていった。

 僕の腕の中にいるこのチャボはその何代目かの、系譜をこまかくはたどれないのだけど最期に残った一羽だった。チャボをなでながら、でも僕が手のひらでなでているのはこのチャボではなく、もはや大きくなって再び小さくなることの不可能な幼い子ども達のいた時間だった。かごの中に干し草を入れ、チャボをその上に置き、タオルをかけてやった。昼になり、かごの紐を肩にかけて山を下りた。たまにさすりながら そしてタオルごしに体が上下に揺れているのをみて呼吸していることを確認した。仕事場で用事をすませ、かごをトラックにのせて街に出かけ、途中でペットボトルに暖かい湯をいれ鶏のよこに置いた。図書館により、買い物にきたスーパーの駐車場で車をとめ腕の中に抱いてしばらくなでた。いくらなで続けてもなくした時間は帰ってこない。そのことはわかっているのだけど。鶏はまだ生きていた。足は青みをおびた灰色で爪先はかなりのびてぐるっと巻いている。足はあたたかくはない。まだかすかな抵抗を感じることができる。冷えたペットボトルを暖かいものにかえ、再び山まで往復した。薄暗くなった夕方、大きな橋をわたる手前の角を曲がるとき、突然、かごの中でバタバタと音を立てチャボが大きく体をうごかした。運転しながら ひょっとしてありもしないことだが元気になるのかも知れないと思った。橋をわたり車をとめ、かごを外に出すとチャボはうっすらと目を開けていた。抱き起こすともうそこに動きはなかった。

こどもが小さい頃通っていた保育所の先生に、引き取ってほしいと頼まれうちに来た黒いウコッケイが居た。その鶏も家の土間で藁を敷いた箱に入れ最期の夜をいっしょに過ごした。バタバタと大きく羽ばたく音が一瞬聞こえ、驚いていってみるとその鳥は亡くなっていた。

飛ぶのが鳥というものだ。だから最後に鶏は羽ばたく。 


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