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「るろうに剣心」と言うアニメがあります。

主人公の緋村剣心は、明治維新を実行したい志士達に頼まれて、幕府側の人を殺す刺客となります。
しかし、剣心に殺された人達にも家族がいたのです。

こうした社会の改革と個人の幸・不幸の矛盾について、史記は、伯夷列伝の中で「天道は是なのか、非なのか(天の道は正しいのか、間違っているのか」と述べています。

殷の紂王は暴君でした。周の武王は紂王を打倒しようと考えます。しかし、伯夷は臣下が主君を殺すのは道徳に反するとしました。

武王は紂王打倒に成功し、それまでの殷王朝に代わる周王朝を創始します。

しかし、伯夷は暴力で暴力に取って代わった事はおかしいと考えて、周王朝から穀物を得る事を拒否、山で山菜を取って暮らしますが、結局餓死します。

史記伯夷列伝は、盗賊でも天寿を全うする人がいる、もっぱら悪事をしながら、子孫の代まで富が絶えない人もいると言った例と比較しながら、

天はいつも善人の味方をすると言う人がいるが、果たしてそうなのか、天の道は正しいと言えるのか?

と言う疑問を呈するわけです。

しかし、史記は伍子胥列伝の中で「人衆ければ天に勝ち、天定まれば人に勝つ」(暴虐な人の周りに多くの人が集まっていると、天に勝ったように見える、しかし、結局はそういう暴君は排除され、天が勝つのだ)と言うことも述べています。

実はこういう風に間違った支配者は天によって排除されると言う思想は、日本の古典にも登場します。

南北朝時代に書かれた神皇正統記は、

およそ保元・平治よりこのかたのみだりがわしさに、頼朝と言う人もなく、泰時と言うものもなからましかば、日本国の人民いかがなりなまし

(平安末期の社会的混乱期に、源頼朝や北条泰時が鎌倉幕府を作らなかったら、日本国の人民はどうなっていたか分からない)

と鎌倉幕府の開始を評価しています。

神皇正統記の著者・北畠親房は、南朝側の貴族ですが、絶対に公家が政権を取るのが正しいと言うようには考えていません。

「このいわれをよくしらぬ人は、皇威のおとろえ、武備の勝ちにけると思えるはあやまり」((日本国人民を救った鎌倉幕府開始の意義を理解できない人が、朝廷が衰えて、武士が勝ったと嘆くのは間違った認識である)

と述べています。

そして、「神は人をやすくするを本誓とする」(神様は人々が幸福に暮らせる事を願っている)として、

「天下の万民は皆神物である」(世の中の人民と言うものは、神様の物である)と述べています。

そこで「君は尊くましませど、一人をたのしませ、万民を苦しむる事は天も許さず、神もさいわいせぬ」(天皇が尊いと言っても、一人だけが楽しみ、人民が苦しむのなら、天は許さないだろうし、神も幸せをもたらしてくれないだろう)語ります。

更に、まして人臣としては、君を尊び、民を憐れみ、天にせぐくまり、地に抜き足し、日月の照らすをあおぎみても心きたなくし光にあたらざらんことをおじ
(神の子孫である天皇から任命されて、太政大臣や征夷大将軍になった公家や武家は、天皇を尊ぶとともに、人民を憐れむべきだ。天に対しては小さくなり、地に対してはそっと歩くような気持ちを持って、お日様やお月様が地を照らすのをみたら、自分の心が汚くて、その光に当たることが出来ないようになっていないかどうか、畏れを持ってあたるべきだ)

と言います。

あるにまかせて欲をほしいままにし、私を先にして公をわするることあるならば、世に久しきことわりもはべらじ(自分の欲望のままに、自己の利益だけを考えて、社会全体の人々の事を考えないならば、そういう支配者の統治は長続きしないだろう)

と言う警告が続きます。

このように間違った統治者は天や神によって排除されると言う思想は、聖書にも見えます。

「(ユダ王国の滅亡は)、マナセ王が罪のない者の血を流し、都を罪なき者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはなさらなかった」と旧約聖書・列王記に書かれています。

このように、中国や日本の古典、聖書に共通して、間違った支配者は、天や神の裁きを受ける、一時的には間違った統治者の思い通りになったように見えても、そういう支配は長続きせず、いつかは天や神によって排除されると言う思想が見られるわけです。

しかし、そのようにして、革命とか維新とか改革とかと言われる事が実行されたとして、その社会に生きるすべての人々が幸せになるのか?

一方で「人衆ければ天に勝ち、天定まりて人に勝つ」と天の裁きを語る史記は、他方では革命の裏側で起きている善人の辛酸について、「天の道は正しいのか、間違っているのか」と両者の矛盾を述べているわけです。

旧約聖書の詩篇には、「竪琴はほとりの柳の枝にかけた。わたしたちを捕囚にした民が歌を歌えと言うから。私達を嘲る民が楽しもうとして、歌ってきかせよ、シオンの歌をと言うから」と言うフレーズが出てきます。

ユダ王国が滅びたのは、罪なき者の血で都を満たした王の暴虐を神が許さなかったためかもしれません。

しかし、亡国の結果、捕囚として連れ去られた人達が、捕囚先で、「おい、捕囚、故郷の歌を歌ってみろよ」とバカにされて、いじめられている様子がこのフレーズから伝わってきます。

「人をやすくするを本誓とする(人々が幸福に暮らせることを願っている)」はずの神様は、大きな手を振るって、社会全体を変化させてくれるとしても、ひとりひとりのところに降りてきて、きめ細かく、個々人が幸せになるように配慮してくれないのでしょうか?

「るろうに剣心」は名作アニメだと思います。それは、このように「社会全体の出来事」において進歩であり、神や天の働きがあるように見える場合でも、個人にとっては不幸な出来事があると言う矛盾に向き合っているからだと思います。

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