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誰もが欲動を持っているから許すと言う論理

北京女子図鑑って動画ドラマを見ました。
もともと、地方から東京に出てきた女性たちの姿を描いたウェブコラムで東京女子図鑑と言うのがあって、実写ドラマ化されたようなのですが、
北京女子図鑑はその中国版で制作されたようです。

その北京女子図鑑のドラマの中で地方都市・成都から北京に出てきた主人公は、男性の社長と交際します。
しかし、男性社長は、他の女性と結婚。

「彼は結婚したくないんじゃない、あなたと結婚したくないんだ、彼女の方が資産を持っているから」

相当ムチャクチャなセリフが出てきて、打ちのめされた主人公を女性上司が慰めます。

「誰もが楽に生きていきたいと思っている。彼も同じ。だから許してあげましょう」

このセリフになんとなく福音書のイエス・キリストの言葉を思い起こしました。

「あなた方は姦淫するなと聞いている。しかし、誰でも情欲を持って女を見る者は心のうちに姦淫を犯したのである。」

つまり、北京女子図鑑の女性上司と福音書のイエス・キリストは、どちらも「罪をおかした人」に対して、自分は「まとも」だが「罪をおかした人」は「まともではない」と考えるべきではないと言う論理に立っているわけです。

「楽に生きたい」とか「情欲を持って女を見る」のは、みんなが思っている事で、実際に行動に移すかどうかは、実行に関わる条件の問題にすぎない、そういう理屈なわけです。

さて、その内面的な欲動を実際に発動させた例は、史記や旧約聖書にいくつか出てきます。

例えば、史記の中で楚の平王は、秦から太子の嫁にと迎えた伯嬴と言う女性が美人なのをみて、自分の妻にしてしまいます。
この後、平王と太子の仲は悪くなり、「楚は兵難に苦しむことになるだろう」と予言されることになります。

旧約聖書では、ダビデ王が臣下ウリヤの妻ベテシバが美人なのを知って、ウリヤを激戦の前線に出して戦死させます。

預言者ナタンがダビデ王の元に乗り込んできて王を叱責し、「あなたの家から剣が離れることはない」と述べます。

つまり、欲動のままに他人の美人妻を自分のものにした結果、王国の平和は破られ、対立が戦乱を生み出していくと言う点が史記と旧約聖書に共通していると言えます。

情欲をもって女を見るのとは違いますが、軽薄にも長子の権利を譲ってしまったエサウと言う人物が旧約聖書に出てきます。

野外から帰ってきて、あまりにも喉が乾いていたため、弟ヤコブにスープをねだり、長子の権利を譲ってしまうと言うお話です。

これも、その時の「欲動」を制することが出来なかったと言う話です。

新約聖書の中では、エサウは「邪悪なエサウ」とまで書かれています。

確かにいくら喉が乾いているからと言って、その時の欲求のままに長子の権利を譲ってしまうと言うのは軽薄ですが、「邪悪」とまでけなすことはないではないかと言う気もします。

さて、北京女子図鑑の資産家の女性を選んだ男性については、史記や聖書に出てくる話と違う点もあります。

楚の平王やダビデ王、エサウの場合には、欲動のままに行動した結果、兵難が絶えないとか、長子の権利を失った挙げ句、邪悪とまでけなされる…

つまり、欲動のままに行動した事が、自分にマイナスの結果をもたらす形になっています。

ところが、北京女子図鑑の男性の場合、資産家の女性を選んだ事で「楽な人生」を歩む事ができる・・・つまり、自分にプラスの結果が生まれてくるわけです。

同じように「欲動」を持っていても、欲動のままに行動する人、しない人、行動出来る人、行動出来ない人がいる、

そして、欲動に基づく行動をしても、それで自分にマイナスの結果が返ってくる人とプラスの結果を得る人がいる・・・

「誰もが楽に生きたい」と思っているから許してあげましょう・・・?????

でも、「楽に生きたい」と願っていても、その通り「楽に生きられる人」と「楽に生きられない人」がいる、

不公平じゃないか・・・・

この問題について、史記は、善人が苦労し、悪人が繁栄する・・・天道、是か非か、(天の道は正しいのか、間違っているのか)と言う問いを立てています。

日本流に言えば、「良いことをしているのに、悪いことはしていないのに、大変な思いばかりする、世の中、神も仏もないものか」

と言うような事でしょう。

この点については、また次回、述べたいと思います。


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