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近松作品に登場する脇差しと刀狩りの実態

近松門左衛門の「淀鯉出世滝徳(1704上演)」には、廓の遊女「吾妻」が、客の「竜田の藤」を脇差しで刺し殺す場面が出てきます。

この脇差しは、「竜田の藤」の持ち物で「竜田の藤」は身分としては「武士」でなく「町人」です。

この描写は、「刀狩り」の実態を考える上で興味深いものがあります。

豊臣秀吉の「刀狩り」の結果、武士以外の農民や町人は全く武器を持てなくなったと言うことはないらしいです。

例えば、江戸時代には道中差しと言って、町人でも旅行中は脇差しを差していることが絵画に描かれているそうです。

また、鳥獣から農産物を守るため、「鉄砲(火縄銃)」を農民は所持していました。

明治以降の作品ですが、新美南吉の「ごんぎつね」には、農民の与平が火縄銃でキツネのごんを撃ち殺す場面が出てきます。

歴史家・藤木久志の説では、刀狩りは、農民から完全に武器を取り上げたと言うより、武士の身分表象としての「刀」の位置づけをハッキリさせたとのことです。

しかし、「刀の明治維新(尾脇 秀和)」は、戦国時代から明治以降までの絵画や文書に登場する描写を分析し、身分表象論を否定しています。

戦国時代の武士達は、「履く(腰から吊るす)『太刀』」を帯びており、「大小二本差し」ではなかったようです。

「大小二本差し」が武士の「身分表象」となるのは、江戸時代に入って、一定の年月が過ぎてからの事なのだそうです。

1704年上演の「淀鯉出世滝徳」を読んでも、町人が脇差しを差している(大小二本差しではない)様子が描写されています。

この描写は、刀狩りによって、武士以外の武器所持を禁じられたわけでもないが、「大小」と言う身分表象を町人は持っていないとする説に一致するわけです。

では、「刀狩り」の実態はなんだったのでしょうか?

実は、「刀狩り」以後、
1)農民は武士に逆らわず、年貢を納める
2)武士は治安維持を担当する(戦国時代のように略奪が横行し、そのへんにいる人を捕まえて奴隷として売り飛ばすようなことが起きないようにする)
3)村内のことは農民が決めてよい(村内自治の承認)
と言った形が成立したのだそうです。

この3)が現代の農地問題を考える上でも重要な点です。

江戸時代、村に「新参者」がやってくると、「本百姓株」を持っている人達の寄り合いで「新参者」にも「本百姓株」を与えて、村の一員とするか決めていたのだそうです。

この方式は、農村の既存農家や農業関係者が構成員となって、「農業をやりたい人」を「新規就農者」と認めるか審議している「農業委員会」のあり方とそっくりです。

つまり、「農業委員会」は刀狩り以降に成立した近世の農村自治の仕組みを近代法の言葉で表現したものだとみなすことが出来るわけです。

実際に、さいたま市では農業委員には、戦国時代に遡る農家の家柄の人がいたりします。

ですから、「刀狩り」の実態がどのようなものであったのか考察するのは、現代の農業問題を考える上でも重要なのです。

今後も「刀狩り」の実態について、勉強をしていきたいと思います。


2週間予報は、なんと1/25 最低気温-14℃としています。
本当にそんなに冷え込むのでしょうか?
戦々恐々です。

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