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認識能力と「死」の起源
たまに見かけるお話なのですが、農業は人為的なもので、農地などは原生自然ではない、原生自然を人の手で改変したものだと言う考えがあります。
これはこの通りなのですが、そこから、農耕の発生以前には、狩猟採集経済だったのだから、自然の中で採集していれば良いとか、
中には、旧約聖書のエデンの園の話を持ち出して、「園の中のどの木からも取って食べてよい」と言う聖句がある、元々は採集経済で生きていたのだと言う事を言う人もいるようです。
実は、旧約聖書の創世記には、
「主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。」
主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
と記載されています。
つまり、農耕をするために人を創造したのだとも読めるので、「エデンの園のどの木からも取って食べて良い」と言う聖句「だけ」を取り出して、
旧約聖書を根拠に、「採集経済賛美論」を唱えるのは、いかがなものかと思います。
さて、「その園のどの木から食べてよい」と言う聖書の箇所は、正確には、
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
となっています。
後段の「善悪を知る木」の実を食べると死ぬと言う話が重要で、この後、ヘビにそそのかされて、その「善悪を知る木」の実を食べてしまい、人は「死ぬ」ようになった、また楽園を追われるようになったとお話が展開していくわけです。
そして、その段階で、
食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
と言うように農耕、もしくは労働の苦しみが発生したとなっています。
つまり、農耕そのものは楽園で行われていた事で「苦しみ」ではなかったが、「善悪を知る木」を食べた事で、その「苦しみ」が発生したとなっているわけです。
実は、メソポタミアやギリシャ神話では、神々に代わって労働するものとして人が造られたと言う記述があるようです。
この神々と言うのが、王様や貴族のことだとすると、古代の奴隷制社会において、王様や貴族に代わって奴隷が働くのを正当化する論理として神話が語られていたと思われます。
旧約聖書の場合、そうではなくて、農耕(労働)そのものは、楽園における活動だったが、
「善悪を知る木」の実を食べた結果として、農耕(労働)が苦痛になったとしているわけで、
古代社会の奴隷労働正当化論に対する否定とも取れるわけです。
さて、興味深いのは、「善悪を知る木」を食べる、つまり、認識能力の獲得が、人の「死」や「苦しみ」と結びついていると言う発想です。
荘子の渾沌物語では、
南海の帝を儵と為し、北海の帝を忽と為し、中央の帝を渾沌と為す。
儵と忽と、時に相与に渾沌の地に遇ふ。
渾沌之を待すること甚だ善し。
儵と忽と渾沌の徳に報いんことを諜りて曰はく、
「人皆七竅有りて、以て視聴食息す
此れ独り有ること無し。
嘗試みに之を鑿たん。」と。
日に一竅を鑿ち、七日にして渾沌死す。
南海の帝「儵」と北海の帝「忽」が、中央の帝「渾沌」に会います。
渾沌は儵と忽をもてなしてくれたので、儵と忽はお礼に、人には七つの穴があって、それで観たり聞いたり食べたり息をしたりしている、その穴を渾沌は持っていないようだから、穴を開けてあげようと考えます。
そして、1日に一つづつ穴を開けて、7日目に7つの穴が出来たら、渾沌は死んでしまったと言うわけです。
7つの穴は、目や耳、口、鼻の穴等の事でしょう。これらの穴は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚などの「認識能力」に結びついています。
つまり、旧約聖書のエデンの園物語と荘子の渾沌物語は、認識能力の獲得と「死」を結びつけている点に共通性があるわけです。
また、仏教の十二因縁論も認識能力と「死」や「苦しみ」を結びつけて考えているようです。
十二因縁は、「無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」で、
三番目の「識」は識別作用、四番目の「名色」は物事の名称と形態、五番目の「六処」は感覚器官の事です。
物事を識別し、名前を付け、感覚器官で捉える、そういう認識能力が「老・死」に結びついていくと言うのが十二因縁論で語られている事で、
感覚器官で物事を捉えることが「死」につながるという点では荘子の渾沌物語と、
認識能力と死や苦しみが関連していると言う点では、旧約聖書のエデン物語と共通しています。
では、旧約聖書のエデン物語、荘子の渾沌物語、仏教の十二因縁論はどこが違うのでしょうか?
これらのお話の共通点と相違点を考えていくと、いろいろな事に気づくように思われます。
その点は、また次回以降に述べたいと思います。