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好色一代男に登場する商品作物生産の成果物

井原西鶴の「好色一代男」に「しめ木にあらそい、衣うつ土の音物かしましう、はしたの女まじりに、絹はり、しいしを放して」と言う表現がでてきます。

「しめ木」は菜種油を絞る道具です。
「衣打つ」は槌で布をたたいて和らげる作業をさします。この語は、「絹はり」=洗張の絹布の両端につける木の棒と言う言葉とともに、「絹」の布の扱いを表現しています。

この絹の布は主人公・世之介様の「お寝巻」だと言うセリフも出てきます。

この世之介は、当時、数え八歳。満年齢で言うと6-7歳です。
両親は「小学にはいるべき年」と考えて、滝本流の書道の先生のところに通わせています。

この両親ですが、父親は夢介と呼ばれた金持ちの遊び人で遊郭から太夫3人を身請けしました。その太夫の一人が母親です。

ですから、世之介はかなり裕福な家に生まれ育っていることになります。

この描写から当時、絹のお寝巻きが一般的だったと言うことはできませんが、とにかく、裕福な家の子なら絹の寝巻きを着ていられたことがわかります。

また、灯火のための菜種油を絞ることも裕福な家で行われていたことが分かります。

絹は桑を育てて養蚕を行うこと、菜種油は菜花を育てて得られます。養蚕も菜花も「商品作物」と考えることができます。

好色一代男は1683年の刊行だそうです。

大阪夏の陣(1615年)から約70年、島原の乱終結(1638年)から45年です。

島原の乱後、1642年に寛永の大飢饉が起こり、幕府は農民への過酷な収奪を和らげるとともに生産を督励するようになります。

飢饉の翌年1643年に出された土民仕置条々は、「泰平モード」での農民政策の方針を打ち出したものです。

絹・菜種栽培が行われていることを示唆する「好色一代男」の記述は、「泰平モード」の農民政策が始まって40年後に行われていることになります。


12/29の最高気温は14℃を超えました。
年末年始の冷え込みは厳しそうですが、3が日明けぐらいから13-15℃ぐらいの最高気温の日が出てくるようです。

ゆっくりとではありますが、野菜の生長も継続していくと思われます。

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