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「碁に凝ると親の死に目に会えない」と言う言葉があります。

囲碁にハマってしまうと、親が亡くなると言う時でも、行かないで囲碁をやっている・・・

何かにハマってしまうと、他の事はどうでも良くなると言う意味です。

現代だったら、パチンコ依存症とか、ゲーム依存症みたいなことかもしれません。

僕の知り合いで何人か若年性の「脳梗塞」をやった人がいます。食生活とかお酒の飲み過ぎとかがあったようで、奥さんにも内緒で買い食いを続けていて突然倒れたと言う人もいます。

こういう場合も自制が効かなくなっているわけですが、「健康」を損なうと言う形で自分の身に結果が戻ってきます。

実は家庭菜園や半農生活でもこういう「自制が効かない状態」は起こり得ます。

それまで農地を使う事が出来なかったのが、実習や体験農園等で使う事ができるようになると、嬉しさのあまり、おうちにあるプランタの苗とかを植えてみたい・・・

と本当に持ってきてしまう人もいます。

また、ネット等で野菜の育て方を熱心に情報収集し、そうして得た知識を試してみたいと言う人もいます。

僕は、こういう人に対しては、出来るだけ要望を聞いて、では、ここにその苗を植えて下さいと誘導するようにしています。

ただ、その誘導先の場所が自分の実習区画でない場合、そこは嫌だ、自分の実習区画の中に植えたいとダダをコネる人もたまにいます。

こういう人は、自分の実習区画を自分の「王国」のように考えてしまい、その王国を自由に統治したいと思っているのだと思います。

中には、大根なら大根を植え続けていると連作障害が起きるから、次はナスなりオクラなりを植えたいと言う人もいます。

実は大根なら大根を植えている「実習区画」の場所は、農園全体の中で移動する事が可能です。

今年と来年で実習区画の位置を変えてしまえば、「連作障害」は発生しません。

自分の実習区画の中で大根の次は、ナス、オクラと言う人は、ネット等で「連作障害の回避のために輪作をする」と言う知識を得て、それを自分の実習区画の中でやってみたい・・・

つまり、自分の王国を自由に運営したいと言う願望で言っているわけです。

こういう願望を持っている人は、ナスを植えたいんなら、ここの場所に植えていいですよと実習区画とは別の場所を指示しても、それはイヤだと言い出すわけです。

この気持ちも分からなくはないのです。僕は将棋が好きで、よく将棋道場に遊びに行っていました。

「プロ」がやっている戦法を真似して指し、相手の方もやはり何かのプロの戦法を真似してきて、道場の先生から「お互い、わかってやってるのかよ」って笑われたこともあります。

本でも雑誌でもTVでもネットでもいいのですが、何かで「プロ」の戦法の情報を得ると、それを自分でもやってみたいと思う心理は、「輪作」を自分でしてみたいと言う心理と共通していると思います。

ただ、将棋の場合、「願望」の実現は、道場での対局の中で行われていて、それ以上の問題は生じません。

「農園」の場合、「地べた」=実際に野菜を植える場所についての問題がついて回るため、「願望」が肥大化してしまうと摩擦を生じやすくなると思われます。

さて、半農生活の場合でも、「新規就農」者として農業委員会に認められ、「菜園起業」のレベルとなってくると責任が生じてきます。

「親の死に目に会えない」は極端かもしれませんが、例えば、今回の台風とそれに付随した大雨で見沼菜園クラブも一時1メートルぐらいの高さまで水没したようです。

おかげで白菜は壊滅しました。玉の内側に入り込んだ水のため、晴れて気温が上がった後、内側から腐ったようです。

非結球性の紹菜(タケノコ白菜)は無事でしたし、小松菜や水菜、シュンギクなども無事でした。

日頃から排水路を掘ったり、硬盤を破砕する努力を続けてきたことがこういう場合に役立ったのだと思います。

地元野菜宅配サービス・野菜のマイクロマーケットでお届けする野菜もなんとか収穫できました。

半農生活でも自分で農地を借りたり買ったりして「確保」し、運営するとなると、一定の責任が生じますが、とにかく、今回の大雨では、その責任は全う出来たわけです。

体験農園の会員になっている段階では、こうした責任は生じません。責任を負う方向、つまり、菜園起業大学を受講して、半農生活であっても新規就農の方向を目指す人もいますが、そうでない人もいます。

菜園クラブの直接の関係者ではないのですが、他の農園に「ボランティア」に行っていて、その農園の運営のあり方が変わり、ボランティアが続けられなくなった人が以前にいました。

僕は菜園クラブでの実習や、知り合いの農家さんでパートで雇ってもいいと言うような話を伝えたのですが、その人は応じませんでした。

この人は、「農業はしたい」、しかし、「実習」や「パート」と言う制約を受けるのはイヤだ、「ボランティア」と言う形で気楽にやりたい、つまり、内面的な「自分の王国」を自由に運営したいと言う気持ちだったようです。

結局、この人はとある公的な農業体験活動の場で「ボランティア」を続けることにしたようです。

本人の願望に適合する活動の場が見つかったわけですから、これはこれで良かったと思います。

こういう事例とは別に、ある日突然、「一身上の理由」で農園活動を止めたいと言ってくる人もいます。

「親の死に目に会えない」ほど、農園活動にのめり込むと言うのも問題なので、これはこれで良いのですが、ただ、その前に、本人が「願望」を言い立てて、散々、その「願望」に対する対応をさせているとなると、「止め方」についても考えざる得ない事があると思います。

これも農業とは別な分野の事例になりますが、僕は学生時代、障がい者の運動に関わっていました。

また、その後も環境問題について、仕事でも活動でも関わってきました。

こうした「活動」をする人たちには「強硬派」も「中間派」も「穏健派」もいます。

「強硬派」の人達と言うのは、今すぐ、自分達の「願望」、「理想」を達成したいと考える事が多いようです。

理想は今すぐ実現できないとすれば、現実と一定の妥協をしながら、理想の実現を粘り強く目指す「現実的穏健派」は、弱腰だと言って攻撃的な非難をしてくる人も強硬派の中にはいました。

こうして他人を批判しておきながら、自分は「一身上の都合」が出来ると活動を止めてしまう、こういう人もずいぶんと見てきました。

農園活動にのめり込み、自分の願望を他人に要求しながら、「一身上の都合」で止めてしまう人は、この「強硬派」の人に似ている部分があります。

(他人に対して攻撃的非難をしないと言う点では、「強硬派」の人たちより「マシ」ですが、自分の王国を自分で自由に運営したいと言いながら都合が悪くなると撤退してしまうと言う点は同じです。)

旧約聖書と新約聖書を通して読むと、自分の願望と自制の関係について、ちょっと矛盾するような言い方が出てきます。

福音書の中で、イエス・キリストは「誰でも情欲を抱いて女を見る者は心のうちに姦淫を犯したのである」と言っています。

姦淫と言うのは平たく言えば、不倫みたいな「不道徳的な性的関係」を指します。

まあ、実際にそう言う事をしなくても、「やってみたい」と言う願望は誰でもあるんじゃない?と言うわけです。

他方、旧約聖書に描かれている「人類最初の殺人」を犯したカインに対して、神様は事件の前、「罪が戸口であなたを待ち受けている、あなたはそれを治めなければならない」と告げています。

結局、カインは神様の言葉に従わず、アベルを殺してしまいます。

カインはアベルを殺したいと言う「願望」を自制できなかったわけです。

姦淫や殺人は極端な例かもしれません。

ただ、いろいろな分野・・・それは食生活だったり囲碁や将棋だったりゲームだったり農業だったり障がい者や環境問題に関わる活動だったりします・・・において、何らかの「願望」は多かれ少なかれ持っているものだし、

時にはその願望を自制出来ないこともある、

そういう点で、誰にでも似たようなところはあるのだと思います。

ただ、願望を自制出来なかった結果が、犯罪や不道徳的行為である場合はもちろんのこと、周囲との軋轢・摩擦を起こしたり、自分の健康を損なったりする場合には、やはり何らかの形で、その人自身にも結果が跳ね返っていく、もしくは跳ね返るようにしなければならない、特に後者(跳ね返るようにしなければならない)と言うのは、集団運営上は重要な事だ思います。

6/5は最高温度が30℃を越える真夏日となりました。5-6月期、二度目の真夏日です。

同時に集中豪雨のようなことも起きやすくなっています。

とにかく、見沼菜園クラブでは、麦の収穫が始まりました。

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