見出し画像

南北朝時代、善政についての朝廷への誡め

「内乱の中の貴族(林屋辰三郎 吉川弘文館)」を読んだのですが、

花園上皇が皇太子量仁親王に「誡太子書」を与えたと言う記述を読んで、関心を持ちました。

「誡」はいましめると言う意味で、文字通り、皇太子をいましめるために書かれたのが「誡太子書」です。

この文は「太子は宮人の手に長じて未だ民の急を知らず
(朝廷の人達の手で育てられていて、民衆の大変さを分かっていない)」
と言う言葉から始まるのだそうです。

そして、「常に綺羅の服飾を衣て織紡の労役を思う無し、鎮へに稲梁の珍膳に飽きて未だ稼穡の艱難を弁ぜず
(いつも美しい着物を着ているが、その着物を織って働いている人の事を考えない、美味しいご飯を食べているが耕し収穫をする人達の苦労を思わない」
と厳しい言葉が続きます。

「国において曾て尺寸の功なく民において豈毫釐の恵あらんや、只先皇の余烈と謂うを以てみだりに万機の重任を期せんと欲す。徳無くして謬って王侯の上に託し功無くして荀しくも庶民の間にのぞむ。豈自ら恥じざらんや
(国についてわずかな功績があったわけでもなく、民衆にちょっとの恵みを与えた事もない、
ただ、前の天皇から受け継いだと言うだけで重大な事をしようとする。
優れていると言うわけでもなく貴族の上にあり、功績がないのに民衆に臨む
それ自体、恥ずかしい事だと思うべきだ」

と述べています。
こうして、皇太子に良い政治を行い、民衆に恩恵を与えるべきだと記しているわけです。

実は以前から北畠親房の神皇正統記に
「天下の万民は神物なり
(世の中のすべての人民は神様の物である)」

と記述に注目していたのですが、

この誡太子書にも神皇正統記と同様の問題意識を感じます。

神皇正統記は「君は尊くましませど、いちにんを楽しませ、万民を苦しむる事は天もゆるさず神も幸いせぬいわれなれば、政の可否にしたがいて御運の通塞あるべしとぞおぼえ侍る
(天皇が尊いと言っても、一人だけが楽しんで、世の中の民衆が苦しむのでは、天は許さないだろうし、神も幸福を与えて下さらない。だから、政治の良し悪しによって天皇の運と言うのも開けたり塞がったりするのだ)」

と述べています。

つまり、神皇正統記と誡太子書は共通して、朝廷の側は人民の事を考えないといけないと言っているわけです。

同時に、この2つの書物は朝廷の側が自分達だけが楽しんで人民の苦労を考えない場合がある事も指摘しています。

つまり、実際に朝廷側が人民の苦労を考えない場合があるが、それはいけない事だ

と言う主張が両書に共通しているわけです。

神皇正統記を書いた北畠親房は南朝の貴族、誡太子書を書いた花園上皇は、後に北朝になる持明院統の天皇だった人です。

つまり、南朝、北朝ともに、朝廷は人民の事を考えないといけないと言う発想が登場している事を初めて知ったわけです。

一度、誡太子書の全文を読んでみたいと思います。また、支配者の側が人民の事を考えるべきだと言う思想が、日本史の中でどのように登場してきているか、今後も注目していきたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?