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「個の誕生~キリスト教教理を作った人々(坂口ふみ 岩波書店)」は、三位一体論とかキリスト論がどのように形成されたかと言う事を追いかけています。

三位一体と言うのは、欧米物の映画なんかで出てくる「父と子と聖霊の名によって・・・アーメン」と言う場合の、「父と子と聖霊」のお話です。

この三位一体論が分かりにくいのは、「父と子と聖霊」が同じだという点です。

天地の創り主、全能の父なる神・・・
まぁ、この世界を作った「父なる神」がいらっしゃるんだな。。。

ここは理解できます。

父のひとり子、イエス・キリスト。
ハイハイ、イエス・キリストは、その「父なる神」のお子さんなんですね。

って、その「父なる神」と「お子さん」が「同じ」だというから???

「父なる神」とは別に「神の子」がいるってんなら分かりやすいんですが・・・

実は、仏教では三身論と言うのがあります。

例えば、阿弥陀様は、もともと仏様ではなく、「仏」になろうとして「本願」と言う誓いをお立てになって、その誓いで衆生を救おうとなされた・・・

ところが、梁塵秘抄と言う本には、お釈迦様も阿弥陀様も、大日如来様なんだと言う事が出てきます。

大日如来様が宇宙の根本原理だとして、その根本原理たる大日如来様とは別に衆生を救ってくださる阿弥陀様や私たち人間のお姿で地上に来られたお釈迦様がいらっしゃると言うなら分かりやすいんですが、なぜか、阿弥陀様やお釈迦様も、大日如来様と実体は「同じ」だと言うわけです。

キリスト教といい、仏教といい、なんで、こんなややこしい教理を作り上げてしまったのか?

凡人には分かりづらいところです。

ところで、三位一体論も三身論も「三」であるところが味噌です。
じゃんけんぽんは、グー・チョキ・パーの3つがありますね。

あれ、例えば、グーとチョキしかなくて、グーがチョキに勝つんだってなったら、面白くないと言うか、「ゲーム」として成り立たない・・・

グー・チョキ・パーって3つあるから、よし、じゃんけんぽんで決めようって、いろいろな場面で活用できるようになっているわけです。

さて、先に述べた「個の誕生~キリスト教教理を作った人達」には、ギリシャ思想の「一」と「二」と「多」について出てきます。

わ、1,2,3・・・たくさん、3以上数えられない?、原始人かよ?
ってなんか子どものケンカみたいなって、

実は「三」から「多様性」が始まるのです。

古代のジャイナ教徒は、「二」から本当の数が始まると考えていました。

「ゼロ」とか「一」は数えようがない、「二」になって、初めて数えると言う事が始まるからだと言うのです。

これはこれで一つの真理だと思うのですが、
「二」は、あれか、これかみたいなところがあります。

「前」と「後ろ」、「右」と「左」、「ハイ」と「イイエ」・・・

「あれ」に対して、「あれではない『それ』」を提示するのが「二」です。

「一」だと比較のしようがありません。「前」だけで「後ろ」がないと言うのは、かなり考えにくいです。

「ゼロ」になると、「前」も「後ろ」もない・・・
平家物語に国常立尊(クニノトコタチノミコト)と言う神様は、存在しているんだけど、形がない、煙みたいなものだと言うお話が出てきますが、どっち向きなのか、「向き」がないとすれば、「ゼロ」は煙みたいな国常立尊状態?

では、「三」は?
「前」と「後ろ」以外にも向きがある?
顔が3つの阿修羅さん?

マルクスは3人から社会が始まる、3人がいれば一人が疎外されると言いました。

我と汝(「わたし」と「あなた」)と言う関係を論じたのはマルチン・ブーバーです。

「わたし」と「あなた」以外に「もうひとり」がいると、
「あなた」と「もうひとり」がくっついて、「わたし」を除け者にしている?って言うのが、「3人がいれば一人が疎外される」と言う状態です。

この場合、「わたし」は「わたし」と「わたし以外」、つまり、「三」の状態を「二」と認識していることになります。

しかし、「あなた」と「もうひとり」は実はそれぞれ違うことを考えていて、別に「ふたり」が共謀して「わたし」を除け者にしているわけではないとします。

でも、「わたし」からみると「あなた」と「もうひとり」がくっついて「わたし」を除け者にしようとしているように見える・・・

そういう風に見てしまうと、「わたし」には、「あなた」と「もうひとり」の違いが見えなくなってしまいます。

仮に「わたし」は「マジメ」だったり「コダワリ」があったりするとします。

そして、「わたし」からみた「あなた」や「もうひとり」は「マジメ」でもなく「コダワリ」も感じられないとします。

「わたし」はこう考えます。「『彼ら』は『マジメ』でもないし『コダワリ』も持たない。でも『彼ら』を受け容れよう」

これは、「彼ら(『あなた』と『もうひとり』)」がくっついて「わたし」を除け者にしていると考えるよりは、前向きな考え方に見えます。

しかし、相変わらず、「二」の思考であることに変わりはありません。

つまり、「わたし」と「『わたし』以外の『彼ら』」と言うように世界を2つに分けて考えているからです。

「わたし」は「マジメ」だ。「彼ら」は「マジメ」ではない
「わたし」は「コダワリ」を持つ。「彼ら」は「コダワリ」を持たない。

こういう風に「マジメで『ある』か」「マジメで『ない』か」、「コダワリを持『つ』か」「コダワリを持た『ない』」か、

あるか、ないか、イエスかノーか、と言うように世界を2つに分けているわけです。

しかし、「あなた」も「もうひとり」も、それぞれにそれぞれの価値観を持っているわけです。

「あなた」には「あなた」の「マジメ」さがあり、「コダワリ」があります。
「もうひとり」には「もうひとり」の「マジメ」さがあり、「コダワリ」があるのです。

ただ、「あなた」の「マジメ」さや「コダワリ」は、「わたし」の「マジメ」さや「コダワリ」とは違い、「もうひとり」の「マジメ」さや「コダワリ」とも違います。

「もうひとり」の「マジメ」さや「コダワリ」も「わたし」の「マジメ」さや「コダワリ」とも「あなた」の「マジメ」さ、「コダワリ」と違うものです。

つまり、「二」から「三」以上になることは、イエスかノーか、あるかないかと言う形で物事を捉えるのでなく、

それぞれの性格、性質において、それぞれを認める、「個」の多様性を考える出発点なわけです。

「個の誕生~キリスト教教理を作った人々」は僕の好きな本のひとつでなんどか読み返したのですが、

なぜ、著者が「一」と「二」と「多」と言う事に言及したのか?、本全体の脈絡上、分からないところがあります。

ただ、キリスト教にしても、仏教にしても父と子と聖霊とか、大日如来様とお釈迦如来様と阿弥陀如来様とかが、
別々の顕れ方をしているけれども、実体は同じなんだと言う三位一体論や三身論のようなよく分けの分からない教理を生み出しのはなぜなのか?

非常に複雑な世界の中で、それでも個々人、ひとりひとりが「救われる」可能性と言うものを考えてみた時、
「二」ではなく「三」、
多様性の入り口としての「三」と言うものを持ち出してくる必要があったのかなぁと漠然と考えているわけです。



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