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つまり、6つの別伝が終わった後、再び日本書紀の本文が始まります。

次に神有り、埿土煑尊埿土・沙土煑尊、次に神有り、大戸之道尊・大苫邊尊。次に神有り、面足尊・惶根尊。次に神有り、伊弉諾尊・伊弉冉尊。

こうして、有名なイザナギ・イザナミが登場してくるわけです。

ところで、日本書紀冒頭部の第二別伝では、「葦牙の抽け出たるが如し」と葦の芽のようなものがあったとしています。

この葦の芽について、他の別伝では、「天地未だ生らざる時」等、中国の古典に登場する「天地が分離してこの世界が成立した」と言う物語を下敷きにしながら説明しようとしています。

「天地云々」的な記述がないのは、第二別伝だけです。

とすると、原伝承に一番近いのは「葦の芽のようなものからこの世界が始まった」と言う第二別伝の可能性があります。

日本書紀本文は、葦の芽云々の記述がなく、古に天地未だ剖れざりし時と、漢籍・淮南子を引用しながら述べています。第一、第三、第六別伝は、漢籍の天地云々を引用しながら、葦の芽云々を述べています。

「葦の芽的なものからこの世界が始まった」と言う原伝承を漢籍の「天地が未分離の状態から分離してこの世界が出来た」で説明しようとして、他の別伝が出来たと考えると、複数の別伝について説明出来るのではないでしょうか?

そう考えると、6つの別伝の後に戻ってきた本文が、「次に埿土煑尊埿土・沙土煑尊(ウヒヂニ・スヒヂニ)」と記すのも興味深く思えます。

小学館・日本古典文学全集「日本書紀」の註釈では、ウヒヂ・スヒヂとも防塞の盛り土の表象としています。

「葦の芽のようなものからこの世界が始まった、そのうち、防塞が生れ、盛り土がなされるようになった」

日本書紀がこういう流れで書かれているとすると、これは縄文から弥生への記憶をとどめているのでしょうか?


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