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史記の鄭世家に鄭が「周の禾を取る」と言う表現が出てきます。

この「禾」について、現代語訳は「稲」としています。注釈には、左伝に秋に周の禾を取ったと言う記載があると書かれています。どうやら、左伝のこの記載を元に史記が書かれ、秋に取ったものだから「稲」と訳した模様です。

「禾」は例えば「秋」や「種」などに使われている「ノギヘン」、それ自体だけの漢字です。漢字としては穀物の総称で必ずしも「稲」を意味しません。

左伝が「秋に取った」、つまり、鄭が周に侵入して収穫物を奪った時季が秋であり、秋に採れる穀物だから稲だろう、その記述を元に史記に書かれたと言う解釈の元に、現代語訳が「稲」になっていると思われます。

史記には「粟道を絶つ」と言う表現も見えます。食糧の搬送を阻止する「兵糧攻め」の事です。この場合、食糧の代名詞として「粟」が使われており、米や麦以前に粟が主要な穀物だった時代があったことを忍ばせます。

また、「麦」はもともと「來」と書かれていたそうです。「西」から伝来した穀物であったため、「來」=「来る」と言う意味に使われ、そのうち、麦の方は「麥」と書かれるようになったと言う話を聞いた事があります。

「禾」自体が「稲」を意味すると言う説もあります。

史記鄭世家の「周の禾」が「稲」を意味するとすると、周で稲作が行われていたことになります。

この時代の周は東周、つまり、現在の中華人民共和国河南省あたりに存在した国家です。

日本の米の源流は長江付近に求められるそうです。春秋戦国時代の国名で言うと、「楚」や「越」、「呉」があったあたりです。魏志倭人伝では倭人の入れ墨の風俗についての記載がありますが、どうやら、越や呉の文化に似ているらしいです。

「楚」は史記の「楚世家」によると、当初は「異民族」と理解されていたようです。北方の麦作民族が「中華」であり、そこに「稲作」の生産力を背景に大国となった「楚」が加わったのでしょうか?

「周の禾」が稲であったとすると、当時、中国では稲作が長江付近から北上して河南省・・・つまり、黄河の少し南あたりですが、そのへんまで伝わっていたと言う事になります。

ただ、鄭がその稲を奪ったと言うことは、黄河の南方では、「稲」の人口扶養力が注目されていたとは言え、まだ稲作が十分に発展しておらず、自国で十分に「稲」を育てられない「鄭」が「周」の「稲」を狙ったと言う事でしょうか?

この辺は、考古学の研究にあまり詳しくないので、何とも言えないのですが、今後は関心を持って眺めていきたいと思います。

2週間予報は、本日以後、4/27まで雨が降らない日は2日のみとの見通しになっています。4/28は晴れるようです。

どうやら、「暖かい春」は、日本近海の水温が高くなって水分の蒸散を活発化させ、雲を作り雨となって気化熱で気温が下がる・・・と言う形で「例年並み」の気温に近づいて終わり、

「例年並み」のゴールデンウィークになると言うことのようです。

4月分の野菜の種まきが全然終わっていないので、どうしようかと考えています。

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