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そもそも、「神」は人の幸せを願っているものなのか?

善人が不幸になり、悪人が幸福になるとしたら、「天道は是か非か(天の道は正しいのか?、間違っているのか)」と史記・伯夷列伝は疑問を投げかけます。

この疑問に対して、旧約聖書に記載されている通り、「天」や「神」の側から「造られた者が造った者に分別がないと言えるのか?」、「私(神)が世界を造った時、お前(人間)はどこにいたのか?」と答えてこられると、ある意味、行き止まりとなります。

私(人間)は「私が生きている世界」で生きていくしかない、そういう「私」と「私が生きている世界」を「天」だか「神」だかが造ったわけです。その「天」や「神」に向かって、「私は悪いことをしていないのに不幸になるなんて、あなた(天、神)は間違っている」と言ってもなにかが変わるわけではないからです。

しかし、それでも、自分はどうしても幸福になりたいんだと主張したらどうなるのでしょうか?

親鸞聖人の教えについて書かれた「歎異抄」には面白い事が書いてあります。

「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」
(善人だって極楽浄土に生まれ変われる、まして悪人が極楽浄土にいけないわけがない)

「善人が不幸になって悪人が幸福になるなら天の道は間違っているのではないか?」どころではなく、むしろ悪人の方が極楽に行けるのだと言うのですから、史記の著者・司馬遷もびっくりの論法です。

新約聖書の中でもイエス・キリストは「私(キリスト)が来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」と述べています。

悪人の方が救われるのか?って話の前に、「歎異抄」冒頭の「弥陀の本願には老少・善悪のひとを選ばれず、ただ信心を要とすべし。そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがためなりの願にまします」に注目したいと思います。

つまり、阿弥陀如来様は、罪が深く、重く、煩悩が盛んに燃え盛るような人々を救う事を願っていらっしゃるのですと言うことです。

このように「天」、「神」、「仏」の側が、人間の幸福を願っているのだと言う思想は、南北朝時代の「神皇正統記」にも見えます。

「神は人をやすくすることを本誓とす」(神様の本来の願いは人々の幸福である)

先には、「造られた者が造った者に分別がないと言うのか」と異議申し立てを棄却している旧約聖書自体が、

「ニネベには右も左もわきまえぬ12万もの人々と無数の家畜がいる。私(神)はそれらを惜しむ」と述べています。

(蛇足ですが、この理屈は、歎異抄の阿弥陀如来様の言い方に良く似ています。善人だから救われると言うのではなく、世の中、どうしようもない奴ばかりだが、そのどうしようもない連中を救ってやりたいと神様や阿弥陀如来様は思っていらっしゃると言う言い方になっているからです。)

また、新約聖書になると、「神はそのひとり子を賜ったほど世を愛して下さった」と述べています。

こうして史記・歎異抄・神皇正統記・聖書を並べて読んでみると、「人間」の側と「天」・「神」・「仏」の側の壮絶(?)なやり取りが浮かび上がってきます。

人間:善人が不幸になり、悪人が幸福になるなんて「天」・「神」・「仏」はおかしい
天・神・仏:いや、アンタを造ったのは私だから。造られた者は造った者に異議申し立てはできない

・・・
天・神・仏:あ、そう言えば、罪人や悪人の方がむしろ救われるって話もあったっけ?

・・・
天・神・仏:それはそれとして、私はアンタ(人間)の幸福を願っているのよ。どうしようもない連中ばかりだけど救ってやりたいわね。

こうなってくると、「天」・「神」・「仏」側の言っている事は、一種パワハラ的な論理にも聞こえてきますね。
(^^)/

今更、「どうしようもない連中だけど救ってやりたい」って言うんなら、初めから、救われるように造ってくれれば良かったじゃないか?

って追及すると、いや、造られた者は造った者に異議申し立てできないってなるのですから、
かなり高等なパワハラ(?)テクニック(笑)です。

さて、この高等テクニックを駆使する「天」、「神」、「仏」に対して、それでも自分は幸せになりたいと言いはったらどうなのか?

そして、そもそも、救われるのは善人だからなのか?悪人の方がむしろ救われるのか?

この点を巡って、次回以降も瞑想(迷走?)が続きます。



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