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「交換」は「自愛心の刺激」から起きるのか、それとも「返礼の義務」から起きるのか

アダム・スミスは「交換」を引き起こす原理を「自愛心の刺激」に求めています。

もし彼が自分に有利となるように仲間の自愛心を刺激することができ、そして彼が仲間に求めていることを仲間が彼にすることが、仲間自身の利益にもなるのだと言うことを、仲間にも示すことができるなら、そのほうがずっと目的を達しやすい

他人にある種の取引を申し出るものはだれでも右のように提案するのである。私の欲しい物をください。そうすればあなたの望むこれをあげましょう、と言うのが、すべてのこういう申し出の意味なのであり、こういう風にして我々は、自分達の必要としている他人の好意の大部分を互いに受け取り合うのである。

我々が自分達の食事をとるのは肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなく、彼ら自身の利害に対する彼らの関心による

つまり、わかりやすく言えば、「肉、酒、パンをくれたらお金をあげますよ。そうすれば、あなたはそのお金で好きなものを買えますよ」と言うことによって、私たちは「肉、酒、パン」を手に入れている。
それぞれが自分の利益を追求する結果、「交換」が生じていると言うのです。

ところがマルセル・モースの「贈与論」には、「交換」が起きる理由について、もうちょっと別な事が書かれています。

未開、あるいはアルカイックと言う社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務付ける社会的・経済的規則はなんであるか、贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのかと言う問題である

我々は祝儀、饗宴、婚姻、簡単な招待などにおいて、互いに競い合い、ドイツ人が言うように、今でも「お返しをする」義務を感じているのである。

モースはマオリ族が「贈られた物(タオンガ)の霊(ハウ)」と言う観念を持っていることについて述べています。

あなたが私にある品物(タオンガ)をくれたとします。(中略)私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返し(ウトゥ)として何らかの品(タオンガ)を私にくれます。ところで彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたからもらい、ついで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。(中略)私はあなたにそれをお返ししなければなりません。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この2つ目のタオンガを持ち続けると、私にはなにか悪いことが起こり、死ぬことになるでしょう。

モースは、なにかをもらったら、お返しをする義務があると言う「規則」によって、「贈りもの」と「お返し」が行われることが「交換」の基礎にある、そして、贈り物には霊が宿っていて、その霊は本来、贈った人の物であり、お返しをしないことはその霊が自分のところに留まっていることになる、そのように、霊を自分のところに留めておくことは、自分に悪いことをもたらす

そう言う観念によって、交換が起きているとしているわけです。

ところでアメリカ民主党は、高騰する肥料代対策として、緑肥などを用いた「環境再生型農業」に65兆円規模の予算案を検討しているそうです。

サウジアラビアと中国は人民元での石油売買を進めることで合意しました。

ブラジルとアルゼンチンは共通通貨を作り、中南米に普及させることを目指すとのことです。

必ずしもアメリカとの間での貿易でなくとも、「ドル」で決済する、平たくいえば、「ドル」で石油、ないしは石油があって作られている物を売買する国際秩序が存在してきました。

今、徐々にそうした体制が崩れつつあります。農業の脱石油化、環境再生型農業の推進は、そうした大きな背景の中で構想されるべきことでしょう。

こうした中で「交換(取引、交易)」はそもそもなぜ生じるのか?について、考えてみることは大切かもしれません。

字数の関係で今回は中途半端な説明となりましたが、今後もこの件については論じていきたいと思います。


2週間予報は、1/30頃から最高気温10℃越えの日が増えてくることを告げています。最低気温-2℃~-3℃の日もあり、大雪の可能性も排除できません。
春野菜の種まきを立春後にするか、バレンタインデー頃まで待つか、思案のしどころです。


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